私の好きなシューベルト3曲 その3
3.フルニエの『アルペジオーネ・ソナタ イ短調 D821』
ずいぶん昔のことになったが、Concert Hallというレコード・レーベルがあった。ブック・クラブのような、当時いろいろあった通販方式のひとつで、正確には覚えていないが、会員はカタログの中から1年に何枚かのLPを買わなければならないというきまりだったかと思う。カール・シューリヒトのブルックナーの交響曲第7番がConcert Hallのもので、これをどうしても入手したく、電話で問い合わせると「どこで知ったか」などと秘密結社のようなことを聞く。「現在会員募集はもう行っておりません」という電話口の方に無理を言い、強引に入会させてもらった。日本の最後の会員だったかも知れない。
しかしながら私の再生装置があまり良くなかったせいか、Concert Hallのレコードは少々音が籠り気味で抜けが悪いのだ。音楽好きの職場の上司にその話をすると、「私もConcert Hallのものはそうだ。どうもRIAA曲線がちょっとおかしいんじゃないかと思っている」という返事である。調べてみるとRIAAとは、テープヒスなどへの対応のため、高音を強めに録音し、再生する際にフォノ・イコライザー・アンプでもとに戻すようになっているらしい。イコライザーなどついていない時代のことである。アンプで高音、低音のつまみを調整しながら聴かなければならなかった

アルペジオーネ・ソナタ (CondertHall盤)
ピエール・フルニエの弾く『アルペジオーネ・ソナタ』もこの時買ったレコードの一枚である。やはり音がややモコモコしている。ただし演奏はすばらしい。フルニエは何回かこの曲を録音しており、そのたびにピアノの奏者が違っている。最初はSP時代でピアノはユボー、このConcert Hallのものは2度目の録音で、あまり知られていないハンドマンというピアニスト、3回目はフォンダ、4回目は小林道夫さん、フォンダのものは聴いていない。それぞれ伴奏を得意とするピアニストだ。フルニエという人は本当にこの曲が好きだったのだろう。最初のものはConcert Hallに近い演奏だが、最後の小林道夫さんとの演奏はずっと落ち着いたテンポ設定になっている。それぞれすばらしいが、私のお気に入りはConcert Hallのフルニエである。
フルニエの演奏を聴きながら、曲の構造を追ってみよう。

ピアノが第1主題冒頭で第1楽章の序を奏すると、チェロが憂愁に満ちたその主題を奏でる。死を目前にしたシューベルト、「死の影」刻み込まれていると言われる主題である。しかしそれは突然に新しい主題へと移行してしまう。それは再現部まで出て来ない補助的なものなのだが、その10度にわたる下降、およびガードルストーンがモーツァルトの「羽ばたく2度」と呼ぶ16分音符の顫動、この2つの要素、実はこれが曲全体の性格を規定する重要なモチーフとなるのだ。

経過句を経て第2主題、これは上下に揺れ動く「羽ばたく2度」と音の跳躍からなるものでその印象は強い。コーダとともに、提示部を終える。その構造を見ると、
提示部 第1主題 21小節(序奏含む)
補助主題 9小節
経過部 9小節
第2主題 32小節
コーダ 10小節
であり、第2主題こそが提示部の主役になっているのである。
展開部を見ればそのことはさらに明確になる。第1主題は長調に転じて開始されるが、補助主題はここでは出てこない。第2主題がほぼ展開されることなく出現し、ピアノの左手低音の「羽ばたく2度」に乗って経過句を経て再現部へと流れ込む。
展開部 第1主題 13小節(長調で入る)
第2主題 29小節
経過句 8小節
再現部は提示部に若干の変更を加えるだけでコーダを経て終える。
第2楽章は穏やかなアダージョのリートであるが、その半ばで長いコーダに入り、そのまま第3楽章に繋がっていく。第2楽章全体が経過部的なものである。
「死の影」のロンドが始まるかと思いきや、まるで鼻歌のようなイ長調のリフレインで肩すかしを食らう。そして突然イ短調の第1クプレ(提示部クプレ)が始まる。この主題の前半は、第1楽章の第2主題の第2音を1オクターブ下げただけで実質同じものであり、後半は揺れ動きつつ高音から舞い降りる。再びリフレインを経て、第2クプレ(展開部クプレ)へ。モーツァルトのピアノ協奏曲などでは情感の中核となる第2クプレであるが、この曲では穏やかで不規則な変奏曲であり、最後はチェロのピチカートである。そのあとのリフレインは省略され直接第3クプレ(再現部クプレ)に繋げ、最後のリフレインに戻り曲を終える。ロンド・ソナタ形式である。
この構造をどう見たらいいだろうか。常識的なソナタ形式などでは考えられないほどの変則さである。第1楽章から曲の骨格を形成するのは、第1楽章提示部補助主題→第2主題→展開部第2主題→第3楽章第1(提示部)クプレ→第3(再現部)クプレであり、その中核のモチーフは羽ばたく2度の16分音符顫動と降下する音型なのである。第1楽章第1主題の憂愁に満ちた主題のウェイトは限りなく小さい。この曲は果たして「死の影」なのだろうか。私はシューベルトの死への抗いのようなものだと感じている。死への恐怖でも、諦念でも、まして死神の舞踏などでは決してない。これを言葉にしたいが「抗い」以上の言葉が見つからない。
なお、この曲ではナポリ6度が頻繁に使われていることで有名であるが、ここでは触れない。池辺晋一郎著『シューベルトの音符たち』第5章「シューベルトが愛した和音」に詳しい。

素人の暴言ではあるが、私はチェロ奏者はシューベルトの『アルペジオーネ・ソナタ』が弾ける人と弾けない人の2種類に分けられると思っている。ロストロポービッチ、ヨーヨー・マといった人は前者だと思う。フルニエの演奏は、情感と力感を併せ持った理想的な音である。またユボーとの古い演奏では、チェロ高音部をオクターブ下げて弾いていたが、ここではほぼ譜面どおりの演奏をしている。ただし、第2楽章後半に入って、1小節だけ譜面通りではなく重音化して弾いており、この楽章の「物足りなさ」を補っているように感じる。このフルニエの演奏は、タワーレコード企画でデンオン製作で復刻された。音質も素晴らしいものになっていた。感謝である。