岡田暁生氏のモダン・ジャズ観

 以前の書き抜きノートを見ていたら、モダン・ジャズについて岡田暁生氏の興味深い言及を抜いているのに気づいた。『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』(中公新書)からのものだ。この著者のものは、みな素晴らしく面白い。今まで言及されていない独自のものを切り出して来る。しっかりとした歴史観に支えられた視座を持っている方なのだろう。

 『音楽の聴き方』(中公新書)、『恋愛哲学者モーツァルト』(新潮選書)、『モーツァルト』(ちくまプリマ―新書)など、それぞれ取り上げたいと思っているものだが、ここでは『西洋音楽史』第七章「二十世紀に何がおきたのか」より、音楽史の中でのモダン・ジャズについての言及に限って見てみたい。

 著者は、ロマン派音楽崩壊後の20世紀に、西洋音楽の「風景」が大きく3つに分岐したとし、それを「三つの道の並走」という言葉でとらえている。

 第一の道について次のように述べている。常識的な西洋音楽史で現代の部で述べられるのは、これである。

第一の道とは、右に素描した前衛音楽の系譜だ。ここまで辿ってきた「作品史としての芸術音楽史」の直接の延長線上にあるのは、これである。しかしながら作品史としての芸術音楽史の存立は、第二次世界大戦後にいては、もはや自明ではない。言い尽くされたことではあるが、私がここで問題にしたいのは、いわゆる前衛音楽における公衆の不在である。……すでに一〇〇年近く前に作られたシェーンベルクの作品からしてそうなのでが、第二次世界大戦後の前衛音楽で、いわゆる演奏会レパートリーに定着した作品は皆無に近い。せいぜい時々思い出したように再演されてはまたも埋葬されるのが関の山であって、「歴史と公衆の審判」を文句なしにくぐることができた作品数が、第二次世界大戦後になると激減するのである。

 第二の道は、私のような年齢のアマチュアの音楽愛好家が辿った道そのものである。

第二の道、つまり「巨匠によるクラシック・レパートリーの演奏」である。これは「公式文化としての芸術音楽史:の延長線上にある系譜だという言い方もできるだろう。指揮者のアーノンクールは、「十八世紀までの人々は現代音楽しか聴かなかった。十九世紀になると、現代音楽と並んで、過去の音楽が聴かれるようになりはじめた。そして二〇世紀の人々は、過去の音楽しか聴かなくなった」と述べている。……今日の「クラシック」レパートリーのほぼすべては一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて確立されたものなのだが、二〇世紀後半の入ると人々の関心は、「誰が何を作るか」かてんら「誰が何を演奏するか」へと、決定的に移行してしまった。とりわけ一九五〇年代あたりから、録音技術の飛躍的な発展もあって、いわゆる「新録音」が絶えず話題になる状況が数十年続いた。

 第三の道、その中でモダン・ジャズが生まれたのだ。普通の西洋音楽史では、決して触れられることのない分野である。

そして第三に、これまた西洋音楽が二〇世紀において生み出した系譜の一つとして、アングロサクソン系の娯楽音楽産業を挙げたい。一九世紀とは西洋芸術音楽が世界を制覇した時代だったとすれば、この音楽世界帝国を二〇世紀後半において引き継いだのが、ポピュラー音楽である。そしてポピュラー音楽のルーツもまた、意外に思われるかもしれないが、一九世紀の西洋音楽――とりわけ世紀後半に大量に作られたミュージック・ホールやサロン音楽の類――にあるのだ。これらが新世界でアフロ・アメリカの音楽と結びついて生まれたのが、現代のポピュラー音楽の遠い祖先、つまりいわゆるティン・パン・アリーの音楽だったり、ラグタイムの類だったりしたわけだ。……また「市民に夢と感動を与える音楽」という美学もまた、そっくりそのまま十九世紀の西洋音楽から引き継がれたものだ。「感動させる音楽としてのロマン派」の延長線上にあるのが、ポピュラー音楽なのである。「クラシック」と「ポピュラー」は地続きであって、決して世間で思われているほど対立的なものではない。

そして著者は、これら西洋音楽から分岐した3つの道に対して絶えず向けられるステレオタイプな批判パターンがある、と言う。それは

  第一の道をゆく前衛作曲家に対して、「公衆を置き去りにした独りよがり」
  第二の道をゆくクラシックの演奏家に対して、「過去にしがみつくだけの聖遺物崇拝」
  第三の道であるポピュラー音楽に対して、「公衆との妥協」や「商品としての音楽」

というものである。そして、この3つの分岐、というよりも分裂に関して著者は、括弧付きの補足の形で次のように述べている。

(一時的だったにせよ、「実験」と「過去の伝統の継承」と「公衆との接点」との間の媒介に文句なしに成功した二〇世紀後半の唯一のジャンルが、……モダン・ジャズである)。

そして「第二次世界大戦以後の最も輝かしい音楽史上の出来事は、私の考えでは、1950―60年代のモダン・ジャズである」というのだ。

 我々はいろいろな立派ではあるが面白くもない、数多くの西洋音楽史の著作を読まされてきた。大作曲家のほかに延々と過去の知らない作曲家とその作品が羅列され、最後は現代音楽の可能性で終わるというのが基本形である。私はポピュラー音楽、特にモダン・ジャズが西洋音楽の流れの上にしっかりと位置付けられているものを読んだ記憶がない。一方ジャズ論者の方でも、ジャズとクラシック音楽との関係はきちんと位置付けられているとは言えないだろう。ある意味、双方の論者の怠慢だったと言えるかも知れない。その点、岡田氏のモダン・ジャズ論は「音楽的風景」という語が示すように、単なる音楽の歴史ではなくそこに社会史的な視座を据えることによって、両者を同じ次元でとらえることのできた、極めて興味深いものだと思う。本書にはここで引用したもの以外に、ジャズに関しても他に多くの独自の見解が提示されている。すべてを引用できないのが残念である。

(岡田暁生氏とジャズ・ピアニスト、フィリップ・ストレンジによる共著・対談『すごいジャズには理由がある』という本があるとのこと、ぜひ読んでみようと思っている。)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

花の話

前の記事

朝倉の山茶花
花の話

次の記事

アロエの花