山本周五郎 『青べか物語』の「経済原理」 その1

 久しぶりに『青べか物語』を通読して、勘違いに気づいてしまった。何度も読んでいるのだが、適当にいくつかの話を択んで読んでいたためだろうが、この主人公「蒸気河岸の先生」は小学校の教師であり、その一方で画家や作家稼業をしているのだと思い込んでいたのだ。とんでもない失敗だ。 

 そう思い込んでしまった理由がひとつある。「先生」と「長」をはじめとする子供たちとの交流が、まるで良き時代の小学校の先生と生徒のように生き生きと描かれているからである。そして、子供たちとの交流描写の頂点にある一篇「経済原理」が私が勝手に昭和文学の最高傑作のひとつとまで思い入れていた作品でもあるのだ。

 その「経済原理」であるが、最近は高校の教科書に収録されているとのことである。これは少々まずい点もありそうに思う。その教科書の末尾にはきっと「『私』が己を恥じた」その理由を簡潔に述べよ、という問題がついていることだろう。教師用の指導本には「子供に対し魚を買うという経済行為を持ち込んだためにその純粋さを損ねたため」といった類の答えが用意されているだろう。確かにそうであろうが、あまりに表層的である。この物語は、はるかに重層的である。物語全体の中でこの「経済原理」は読み解かれなければならないと思う。

「経済原理」を読む

 ある日「長」ら子供たちの魚取りの場に出くわした作者は、彼らにその魚を買おうと言ってしまう。途端に彼らは、この町の大人顔負けの商人となり、少しでも高く「ふな」を売りつけようとするが、それを買ってしまった作者に、子供たちは毎日のように魚を売りつけにくるようになるのだ。「ふな」に食傷した作者はとうとう最後に買い取りを拒否する。そのくだりを引こう。

 私に拒絶されて、少年たちは明らかに失望し、途方にくれた。かれらは顔を見交わし、先生が駆引しているのではないかと疑い、そうでないことを認めるともっと失望し、どうしたものかというふうに、それぞれの手にした器物の中の鮒を見まもった。
「みんな」と長が急に云った、「それじゃあこれ先生にくんか」
 くんかとは、贈呈しようか、というほどの意味である。途方にくれ、落胆していた少年たちの顔に突然、生気がよみがえった。それは囚われの縄を解かれたような、妄執がおちたような、その他もろもろの羇絆を脱したような、すがすがしい濁りのない顔に返った。
「うん、くんべ」と少年の一人が云った、「なせ。これ先生にくんべや」
「くんべ、くんべ」
「先生、これ先生にくんよ」とかんぶりが云った、「みんな、勝手へいってあけんべや」
 私は自分の大きな過誤を恥じた。
 少年たちに狡猾と貪欲な気持を起させたのは私の責任である。初めに私は「その鮒をくれ」と云えばよかったのだ。売ってくれと云ったために、かれらは狡猾と貪欲にとりつかれた。私のさみしいふところを搾取しながら、かれらも幸福ではなかった。その期間、かれらは貪婪な漁夫でありわる賢い商人だったからだ。私は深く自分を恥じた。
「先生にくんよ、か」と私は口前をしてみた、「これ先生にくんよ」  そう云ったときの、すがすがしく、よみがえったような顔つきや動作を思いうかべながら、私は深く自分を恥じた。

『青べか物語』「経済原理」より

 作者の三度にわたる慚愧、最初は己の過誤への、次には己の子供らに対する己の罪への、そして最後には悔悟は己自身の存在へと深まっていく。これを読んで私は、大げさかも知れないがペテロの三度のイエス否定を思い出してしまうのだ。ペテロは単にイエスを否定したわけではない。イエスを信じたと思い込んでいた己の弱さを否定したのだ。『青べか』の作者も、三度の悔悟を通して、最終的にはペテロのような自己否定を行っているのだ。では、どのような自己否定であるか。

 それを考えるためには、そもそも「経済原理」とは何かを考える必要があるだろう。最も原初的な意味では、需要供給、すなわち需要があれば供給が生まれ、需要が無ければ供給もない、という原理と、等価交換の原則、この二つである。
「需要があれば供給が生まれる」、すなわち作者が魚を買おうと言った途端に供給が生まれる、ここで行われる等価交換は、作者は魚を子供たちは小遣いを交換しているだけであり、子供たちができるだけ高く売ろうと、いくら吹っかけようと、彼らに罪はない。合意した時点で等価交換が成立しているのだ。
「需要が無くなれば供給もなくなる」、すなわち魚と金の交換の終了、実はここでも等価交換が起こっているのである。子供たちは子供の純粋さと笑顔を取り戻すことができたのだが、作者が得たものは何か、支出の節約といった単純なものではないだろう。作者は三度の自己否定で何かを失っているのではなく、何かを得ているのだ。これがペテロの自己否定を通して得た信仰に相当する、作者の得たものに違いないと思うのだ。私はこれこそが『青べか物語』の隠された主題であり、その象徴的なものがこの「経済原理」だと思う。

「はじめに」を除くと、「経済原理」はその前に15篇、その後に15篇、意図的に数合わせをした気配さえも感じるが、ちょうど作品全体の中央に位置付けられている。折り返し地点なのだ。その前後を読み比べることで、作者が三度の慚愧を通して得たものが何だったか明らかになるだろう。

「経済原理」以前と以後で何が変わったか

 『青べか物語は』は、作者が芳爺さんから「青べか」を売りつけられた話から始まる。この芳爺さんの狡猾で貪欲で巧妙な商人ぶりを面しろおかしく描き出し、この「浦粕」という町の一部の人々の狡猾さという「共通した顔だち」を強く印象づける。
 続く「蜜柑の木」で作者は「ここには美しいものなどはないのだ」と言い切る。作者の目に映るのは一部の例外を除いて、その猥雑さ、醜悪さなのであり、作者は他者に対する評をする立場に立つ者である。そのような中「繁あね」は特別な意味を持っているだろう。親に捨てられながら市の保護を拒み、赤子の妹とともに墓場で食い物をあさるような、町で最も汚く嫌われている女の子である。自らの発話を全く記さない作者が唯一の例外として、この「繁あね」との会話だけを書き記すのである。また他の子供たちにかけた繁あねの言葉、これが何と確実なものだろうか。また垣間見た繁あねの「成長するいのち」に作者は「聖なるもの」を見ていると思う。しかし繁あねは立ち去ってしまう。作者は「美しさ」を確実につかむことができないのだ。もう一篇、「ごったくや」の全裸で川で水浴みする女たち、作者は彼女らを「神のごとく無知であり単純」としつつもこの篇はどたばた喜劇でおわってしまう。この段階での作者には「美しさ」というものががまだよく見えてないと思う。

 しかしながらわれわれ読者は、作者とともにこの「浦粕」のひとびとに向けていた軽侮のまなざしが、次第に変質して来ていることに気づかされるのだ。

 そして、その後に来るのが「経済原理」なのだ。「己を恥じた」作者、何も変わらない方がよほど変である。「浦粕」の人々の中にも「美しさ」を見ることができるようになってくるのだ。最も印象的なものは「葦の中の一夜」と「家鴨」の二篇だろう。「葦の中の一夜」は廃舟で一人暮らす老船長の悲恋物語りである。これはモーツァルトの音楽のように美しくも悲しい。下手な引用などはとうていできない。「家鴨」では、町一番の乱暴者で嫌われ者だった「増さん」がその妻に凄惨なまでの暴力をふるい続け、とうとう骨折させてしまう。そのくだりを引こう。

「おら骨を折ったとは知らなかっただ」と増さんは続けていた。「ただ、おっかあのやつが妙な声をだしたんで、ひょいと手を引いた、するとおっかあが倒れたまま、おらのことをじっと見あげながら云っただ、――どうか殺さねえでくれ、ってよ」
 増さんは恥ずかしそうに眼をしばしばさせ、右手で、銀色の無精髭の伸びた顎を擦った。 「どうか殺さないでおくれって」と増さんは少しまをおいて云った、「おらを見た眼つきと、そう云うのを聞いたとき、おらそれまでに自分のしてきたことを、洗いざらい一遍に見せられたような気がしただ、なんもかんも一遍によ、――まさか嘘かと思うかもしれねえが、おらそんとき男泣きに泣いちまっただよ、がきみてえになあよ」

『青べか物語』「家鴨」より

 増さんは、その瞬間妻の眼の中に間違いなく「神」を見ている。それ以来、毎日歩けない妻を背負って湯屋に通い全身を洗い流す。肴の天ぷらはお柔らかい身は妻のために持ち帰り、自分は骨を揚げてもらいそれを食うのだそうだ。

 このような醜悪さ、猥雑さとそれへの侮蔑から、悲しさを透かしてその中に「美しさ」を見る眼、作者が「経済原理」を経ることなしには得ることができなかったものだろう。それは、文庫旧版の平野謙の解説に「『狐火』が一種の気流現象であり……『浦粕の宗五郎』が警察の謀略であることをみぬいていても、『私』が余計なさし出口をきかぬ」と記しているように、「経済原理」以降の作者は、浦粕の人々を他者として評することがなくなるのも、この眼によるところが大きいだろう。

(その2 につづく)