山本周五郎 『青べか物語』の「経済原理」 その2

 我々は作者とともに「美しいものは何もない」浦粕の人々に対し、その狡猾さ、醜悪さを見、その無知に蔑みの目を向け、優越者の立場から憐れみの思いさえ抱きながら、この物語を読み始める。しかし、次第に我々の目は作者の目同様、それらの中にほの見える美しさにも気づき、次第に変化していくのだ。そして、その大きな転換点となったのが「経済原理」であった。それ以降、作者は「差出口をはさま」ず、さらに「評をする自己」を乗り越えて新たな次元へと移行するかと思えてきたその時、この物語の幕引きとなる事件が起きるのだ。

■なぜ作者は浦粕から逃げ出したのか

 静かに己を見つめなおしていたかに思われる作者は、実質的に『青べか物語』の最後の一篇「留さんとその女」で、衝撃的な場面に立ち会うことになる。この一篇は「少々頭があたたかい」ながら、最も悲しくも美しい物語の担い手である留さんと、その持ち金を狙って押しかけた、最も醜悪な物語の担い手ともいえる「女」の話である。女の働く小料理屋で、その「女」にピエロ扱いされ、他の客の前でばか踊りをさせられる留さんを目撃した作者は、一旦その女の不幸でもあったろう過去に同情しながらも、彼のからだは思わず怒りに震えてしまう。

――なんという女だ。
 私は歯をくいしばりながらそう思った。留さんは踊りだした。………私は踊っている留さんから眼をそらし、いそいで勘定をして、逃げるように根戸川亭をとびだした。

そしてそのまま浦粕を逃げだすのである。上文に続き、

「巡礼だ、巡礼だ」暗い土堤を家のほうへ歩きながら、私は昂奮をしずめるために、声にだして呟いた。「苦しみつつはたらけ」それはそのころ私の絶望や失意を救ってくれた唯一の本、ストリンドべリイの「青巻」に書かれている章句の一であった、「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」

 あまりに唐突な、ほとんど“逃避”のような作者の浦粕脱出、実質的な『青べか物語』の幕引きである。一体何が起こっているのだろう。私は、「経済原理」などを経て封印することができつつあった「評する自己」が再び頭をもたげてきているのに気づいてしまったからだろうと思う。

 もし『青べか物語』がここで終わっていたら、それは単に「封印」失敗の物語に過ぎなかっただろう。その失敗を乗り越える力となるのが、ストリンドベリ―の『青巻』であり、それで語られた「巡礼」であろう。ストリンドベリ―の原文を引こう。

祈りながら働け。苦しみながら望みを抱け。天と地とを共に我が裏に有ったのだ。永久の定住を求めるな。此の世は巡礼の世である。故郷では無くて、さすらいの場である。真理を求めよ。さらば発見し得る。只道にして、真理であり、生命である。基督とともにあってのみ真理が悟られるのだ。

ストリンドベリ―『青巻』 柳英彦訳 大正10年刊 
国会図書館デジタルコレクション

 意図的だろうか、作者によって「神=基督の顔」は読者には明かされない。「神の顔」を隠した巡礼である。

■「巡礼」とは何か、そして「青べか」とは何だったのか

 『青べか物語』の心を読み解くためには、その作者にとってストリンドベリ―の言葉の意味、すなわち「巡礼」とは何なのかを考えなければならないだろう。一般的に「巡礼」とは、聖地を訪れ、自己の信仰を再確認する行為であろう。作者はいったい何を再確認しようとしているのだろうか。

 その前にいったん「青べか」とは何だったのかを考えなければいけないだろう。それは、ただの「しょぼくれたべか船」に過ぎない。作者は、この「青べか」を乗りこなそうと格闘する一篇「青べか馴らし」で、次のように述べている。

お願いしたいのは、私がこれを人間的葛藤の比喩に使っていると思っていただきたくないことである。………聖書によれば、人間の原罪の片棒を担いだために蛇はいつまでも憎まれ、塵の中を這いまわらなければならないのだ、という。私は青べかのうえにも、その原罪の不当な迫害という共通点を感じて嘆息した。

「原罪」まで持ち出して特別な比喩がここにはないとは、不思議な言い分である。何等かの意味を読み取ってほしいと言っているようにさえ、読めてしまうのである。

 「青べか」は、「経済原理」以降の後半、ほとんどその存在に言及されることが無くなってしまう。作者はおのれの「自己」が「評をする自己」に過ぎなかったことに「経済原理」を通して気づいたのだ。それを象徴するように、作者の「評をする自己」を超克しようとするにしたがって、「青べか」はその存在を希薄にしていくのである。

 私はその「原罪」を背負った「青べか」とは、作者の「評をする自己」の比喩にほかならないのではないか、と思っている。「評をする自己」とは何か、それこそ「作家というものの業、すなわち原罪」にほかならないだろう。

■最初の巡礼、「おわりに」

 浦粕から逃げるように脱出した作者は、作家としてある程度の成功をおさめつつあったのだろう、八年後に浦粕を訪れている。最初の巡礼である。あれほど逃げるように脱出した浦粕である。作者はいったい己の何を再確認しようとしたのだろうか。何を再確認できたのか。

 しかしその冒頭は脱出時にもまして衝撃的なものであった。少々長くなるが、その場面を引用する。

 私たちは高橋から東湾汽船に乗ったのであるが、乗ろうとしたとたんに「先生よう」と声をかけられ、見ると、そこに留さんがいるのでどきっとした。
 私はそのとき殴られるかと思った。――というのは、それより半年ほどまえに、私は「留さんとその女」という題で、二十枚ほどの短篇を発表していた。載せたのはアサヒグラフであって、そのじぶん編集を担当していた宮田新八郎の好意によるものだったが、浦粕のノートから幾つかの短篇小説にした中でも、留さんの話がもっとも事実に近かったからである。――私は自分をなだめた。留さんが小説などを読む可能性はない、少なくともアサヒグラフを読むような機会はないだろう、おちつけ、と自分をなだめた。にもかかわらず、留さんは「あれを読んだだ」と云った。
「おらんこと小説に書いたって」どんな闇夜でも黒く見えるという、石炭のような黒い顔に、てれくさそうな羞み笑いをうかべながら留さんは云った、「――高品さんのおかみさんがおらにくれたで、読んだだよ」
「あれは」と私はいそいで云った、「あれはつまり小説なんでね」
「おら大事に取ってあんよ」と留さんは私に構わず続けた、「一生大事にしておくだ」そしてさらに云った、「おら家宝にすんだよ」

 旧版文庫の解説で平野謙は次のように記している。

そのとき、作者は横っ面をひっぱたかれたような思いをしたにちがいない。留さんのような質朴そのものような聖なる人間をモデルにした小説を得々と書いて、しみったれた生活の資にするなどは、自分こそ留さんの風上にもおけぬ人間だ、と作者は感じたはずである。

 強烈な「作家の原罪」からの復讐である。八年後の「巡礼」は、過去のみじめな自分、克服しようとしていた古い自己の残滓を再確認しただけに終わることになるのだ。己の過去は再度封印されなければならない。作者は「おわりに」の最後で、「もう二度とこの町に来ることはないだろう」と心の中で呟くのである。

■「三十年後」

 「おわりに」での留さんとの出会いで、第一の封印はこなごなに打ち砕かれてしまった。あれでは古い自己を超克することはできないのだ、再度の封印と巡礼がなされなければならない。二度と来ることはないと決めた浦粕に、作者は三十年後に訪れることになる。

 かつて作者と「繁あね」以外の町の人々との間には、作者の発話が記されていないことは上述したが、この三十年後の訪問で最も驚かされるのは、作者と「長」をはじめとする町の人々との会話で作者の発話が記されていることである。これは平野謙の言う巧妙な構成手法や文体上の問題だけではないと思う。作者の町の人々の間には、ハーバーマスの言う「理想的発話状態」が成立していなかった、おそらく作者がそれを作り上げることができていなかったのだ。「我と汝」の間には一枚の膜がある。作者の「評をする自己」はその膜をとおして浸透していくことができていなかったのである。

 三十年後に出会った、かつての「長」はじめその兄「鉄なあこ」ら、誰一人としてその記憶の中に作者は残っておらず、完全に消えてしまっている。その一方で彼らとの会話は驚くほど自然である。彼らの記憶からの消滅は、作者には何らの喪失感をも与えていない。忘れられていることに安堵の感情さえ覚えているのではないか、と感じさせるのだ。浸透していなかった作者の自己が人々の脳裏にその姿を焼き付けることがないのは、当然かも知れない。しかしそれを確認できたことこそが、古い、評をする自己を、そして作家としての原罪の超克に向けての歩みを確認できたことを示しているのだと思う。

 最後に「青べか」がその後どうなったのかわからないことが語られる。この「青べか」の消滅とともに、作者の「封印」は三度目にしてやっと完成したのである。

題名の青べかがどうなったかは、ついに不明のまま、この物語を終らなければならない。――私は近いうちに、もう一度ぜひ浦粕へ、こんどは釣客としていってみるつもりである。

■残った疑問

 私と『青べか物語』との付き合いはすでに五十年を超えている。しかしこの本にはよく分からない謎がたくさん残っている。
 そもそもこの物語は非常に重層的にできている。実作者の私小説的なものを持つものとしても、独りの作家の成長の教養小説的なものとしても、あるいはまた「逝きし世の面影」的に読むことも可能であろう。その読み方によって、それぞれに謎が生まれるのだ。例えば「土堤の秋」で涙を流す若者、あれは誰だろう。あの涙の意味は何だろう。読み方によってさまざまな解釈が可能になるはずである。
 また、この物語は、冒頭の時期にストリンドべリーの『青巻』が読み始められ、幕引きの時点で読み終えている。つまりこの物語の背景に『青巻』が平行して進行しているのだ。平行して読めば、さらに別の読み解きができるかも知れない。
「三十年後」でも沖の百万坪の神社礼拝のふるまいなど、神の問題が潜んでいそうである。時折、ドストエフスキーの影が潜んでいるように思えることもあるのだ。

■最後に一言

 私の愛読してきた新潮文庫の昭和46年発行の旧版も、紙が黄ばみ、当時採用されたばかりののり綴じの質もまだよくなかったのだろうか、壊れがちになっていた。改版されたことでもあり、今回新版を買いなおした。文字も大きく老眼にはやさしい。ところが、表紙カバーの背に、こんな「キャッチフレーズ」が記されているのを見て驚いてしまった。

「騙し、騙されるのに、なぜか幸せだったりする。」

 ちょっと心配になってきた。

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