毎月のうた⋯⋯五月

   「五月の朝の新緑と薫風は私の生活を貴族にする」
          (『月に吠える』「雲雀料理」端書より)
 これが、あの『月に吠える』の中にあることが不思議なほど美しい、最高の五月賛だ。
 今年は桜のあと、いっせいに草木の花が開き、どこからともなく芳香がただよってくる。
 貴族気分とまではいけないが、オミクロン後遺症と花粉症に苦しめられたわが嗅覚は、着実に回復期にあるのが実感できる。

■ 大岡信 『芝生の上の木漏れ日』五月

 大岡信の五月のテーマは、この“香り”である。

 「五月」という月は、草花にせよ、鳥とか昆虫とかにせよ、生命力が躍動して大きく羽ばたく時期です。五月五日は端午の節句ですが、端午の節句は菖蒲〔あやめ〕という花と関係があります。昔からの古典的な習慣でいえば菖蒲は端午の節句に結びついたかたちで観賞されるということがあったわけです。そういう菖蒲も含めて、花が香りたつ季節が五月なのです。四月の桜の花のころはまだ、草花あるいは木の花もどちらかといえばつつましやかな香りという感じがしますが、五月になると、それこそ香りのいい花木や草花が多くなってきます。
 その一つとして柑橘類の香りがあります。
   ・・・・・
 五月は「匂い」が重要な季節なのです。

 そして、あの有名な「古今集」の歌がとり上げられている。

‥‥‥和歌で「花橘の香」といえば、これはもう絶対に「昔の恋人」という連想を伴っていました。花橘の香りは単に自然現象としてのものではなくて、そこに人間の現象が必ず付随していたのが特徴です。
 その特徴的な歌が『古今集』にあります。

   さつきまつ花たちばなの香をかげば
       昔の人の袖の香ぞする
        よみ人しらず

 これはおそらく男が女をうたった歌でしょう。ふっと橘の花の香りがした瞬間、昔の恋人の袖にたきしめられていた香りを思い出した。恋人の袖の香が花橘の香りに近い感じがしたのでしょう。この歌は非常に愛された歌で、「花橘の香」といえば「昔の人」という連想の型ができたほどです。

 大岡信はこの「五月」に「いい風の吹くことよ」と副題を付している。これは正岡子規の

六月を奇麗な風の吹くことよ    正岡子規

からとられたものだ。大岡信が今月にとり上げたように、これはやはり六月というよりも五月を実感する歌だろう。

■ 三好達治 『諷詠十二月』四月

 『諷詠』の五月は、その正岡子規と若山牧水の二人を大きくとり上げている。
 子規の「奇麗な風」は、初めての喀血直後のものだが、まだ快復の望みのある時期の歌だろう。しかし、三好が『諷詠』で取り上げるのは、末期の床から子規の目がとらえた、藤と山吹の花の歌である。それぞれ数首ずつ抜き出してみる。

    藤の歌
 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
 藤なみの花をし見れば紫の繪の具とりいで寫さんと思ふ
 八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く

    山吹の歌
 裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる山吹の花
 水汲みに往來の袖の打ち觸れて散りはじめたる山吹の花

 三好は「漱石がどこかで、子規というふ男は何をやらせても拙といふことを知らない男だと嘆じてゐとた」いう話を紹介しているが、これらの歌は「見事な俊敏な手腕に俟つてはじめて……(この)虡淡淸白な、而してまた強烈な詩境を打出し得た」と絶賛する。
 後者「山吹の歌」に対する子規自身の謙辞「粗笨鹵莽、出たらめ、むちゃくちゃ云々」にもかかわらず、

 實情實景の淡々たる境地を叙して、假託や誇張のない淡々たる同感を讀者の胸裏に喚起するといふことは、或は容易らしく考へる人があるならば試みに自ら手を下してみ給へ。決して容易な業ではない。それはそれなりの充分困難な精神の鍛錬や技巧の修練、またそれにも先だつて一箇の天分を必要とする筋合のものであつて、もとより決して「粗笨鹵莽、出たらめ、むちゃくちゃ、」のまぐれ當りのよくするところではない。

 実は私も晩年の子規の歌を、やむを得ないものながら、その世界の狭さから何かもの足りないものに感じていた。著者の時代にも同様に感じる人が多かったのだろう。今回、私の晩年の子規に対する私の目は覚まされたように思う。

 山吹の歌をもう一首、

あき人も文くばり人も往きちがふ裏戸のわきの山吹の花

 これも病床からだろう。“文くばり人”、すなわち郵便配達人だが、おそらくロンドンの漱石からの音信を首を長くして待つ子規の心の声もそこに込められているのだろう。

 最後の「しひて筆をとりて」十首、「凄愴の氣、人の面を撲つほどの迫力があつて、これを通讀して、思はず神氣の粛然たるを、覺えないものはあるまい」と述べる。数首を引く。

 世の中は常なきものと我愛づる山吹の花散りにけるかも
 夕顏の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも
 いたつきの癒ゆる日知らにわ庭べに秋草花の種を蒔かしむ

 子規がその秋花を見ることはなかっただろう、彼の死はその年(明治35年)の九月である。
 数十首の花の歌、その最後を“見ることのできなかった”悲しい花の歌で閉じる。三好達治の子規への深い思いを見る気がする。

  後半は若山牧水である。特に季節にこだわっていない。言及されるのは主に時代的、文学史的な意義である。取られたものから数首抜粋する。

 眞晝日のひかりのなかに燃えさかる炎か哀しわが若さ燃ゆ
 白鳥はかなしからずや空の靑海のあをにも染まずただよふ
 雲ふたつ合はむとしてはまた遠く分かれて消えぬ春の靑ぞら
 幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく

 そして牧水の歌ぶりについては、

 卽ちここには、明治初頭以來輸入しつづけられた西歐文學の反影が、餘光が、その奔放な自我解放の夢、その奇異な異国趣味〔エキゾティズム〕の薫香が、複雜な紆餘曲折を經た後ではあらうが、しかし明瞭に強烈に集約されてゐるのである。

 それが「萬葉、古今、新古今以下一脈の傳統を継承して來たわが敷島の道乃至わが國文學の舊傳統には決して見ないところのものを蔵してゐる」が、「子規の『藤の歌』その他から僅々五七年ばかり遲れた時期の所産」であることに驚きを示している。

 最後に蒲原有明の詩三篇が取り上げられているが、それらが牧水の「詩境と本質の點共通した何ものか」が看取されると述べているが、牧水の歌が今でも新しさ、新鮮さを感じるのに対し、有明の詩の古さはどうも否みようがないように思う。

■ 鯉のぼり

 最近は端午の節句に鯉のぼりを立てる家を見なくなった。住環境もそれを許さなくなったのだろう。
 しかし私の幼年時代の思い出は、何といっても鯉のぼりだ。五月になると必ず、父が鯉のぼりを立ててくれたものだ。子だくさんの隣家のものが、吹き流しから小さなものまで、たくさんの鯉がにぎやかに泳いでいた。子供心にこれがうらやましいのだ。いくらねだっても、頑として黒と赤、二尾しか許してもらえなかった。
 川の流れに見立てた「いい風の吹く」青空の中を、鯉ののぼりを泳がせる、何とすばらしい意匠だろう。
 鯉のぼりが、武家の伝統のもので立身出世を表徴するという連想や、楽天的なうれいのなさがあまり好まれなかったのか、和歌、ひいては俳句の伝統に、鯉のぼりは乗り切れなかったようだ。

 パソコンについているAIが「鯉のぼりの有名な歌」を見つけてきた。誰のものかわからない。その一部、

   鯉のぼり数えるほどの過疎の町
   鯉のぼり見かけぬ街よ時代なり

ちょっぴり、残念である。

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