三島由紀夫の『仙洞御所』

もう随分前のことになったが『古美術読本 庭園』という文庫本を読み、その中の一篇、三島由紀夫の「仙洞御所」に衝撃的な感銘を受けた。同書は、その他に志賀直哉「竜安寺の庭」、井上靖「桂離宮」、大佛次郎「修学院離宮」をはじめ、岡本太郎、東山魁夷、室生犀星、吉村貞司‥‥といった錚錚たる顔ぶれの庭園に関する随筆を集めたものである。その中でも三島の「仙洞御所」は一頭地を抜いた名随筆である。
何がそれほど衝撃的だったか。それはこの回遊式庭園の情景の描写力である。あたかも回遊につれて庭園の情景の描写が実際に展開するかのようである。今回の再読でも、私の記憶に残る二十年前のビジョンは全く色褪せてはいないのだ。三島の情景描写の文章力に驚かされる。
ここでは特に三島の筆が冴えをみせる、仙洞御所北池に突き出た“岬”の描写をとりあげよう。彼の描写と写真を対照させ、その描写の技を精しく見てみたい。
そこには南池の南半分とは全く違った、優雅でのびのびとした風光がひろがってゐた。対岸の雄滝から右にのびる岬の汀が、世にも美しいのである。

これが、その“岬”の全景である。それを彼は次のように描き出す。
左側の雄滝は、目も隠れるほどの深々とした庇髪のやうな木下蔭から、丁度滝の裾のはうの水の光と飛沫だけが望まれるやうになつている。滝の半ばが影に包まれてゐるために却つて涼しげで、繁吹〔しぶき〕に濡れてそよぐ葉末の感じまでが、遠くから窺はれる。
この滝から右方へ、なだらかな岬がのびてゐて、岬の部分は芝生だけにおほはれてゐる。徐々に高まつた岬の根方は、小笹や下草の上に木々が生ひ茂つてゐるのに、ある一線で截然と絶たれて、そこから岬の端〔はな〕までは、坦々たる芝草が、うららかに日を浴びてゐるのである。
何の衒いも、何の変哲さもない平明な文であるが、岬の全景を完全に描き切る。並の文章力のできるところではない。しかし、この三島の短文の驚くべきは、これに続く、岬の汀の縁石の描写である。縁石部分を取り出した写真とともに読んでみよう。

この岬のスロープの絶妙さについてはあとで述べるが、池の西側から眺めた限りでは、もっとも目につくのは、このゆるやかにゆるやかに水面に向つて低まる岬を、水面から劃する石組である。
石組の高低は岬の端にいたるまで微妙に配分されて、音楽のやうな流れをなしてゐる。それはピアノで弾かれた遁走曲のやうな趣である。滝のすぐ右側には、草紙洗石と呼ばれる平たい舟着のやうな巨岩が、ゆつたり水面へひろがつている。そこから右へ、黒い石がわだかまり、ついで白い低い石が続き、ついで赤っぽい鋭い石が高まると、黄ばんだ石塊をなし、さらに最後にもつとも高い黒石が白い流条を示して聳え、この頂きと、だんだん低まつて来た背後の芝生の稜線とがまじはると見る間に、今度は前〔さき〕と同じくごく低い横石がつづいて、端〔はな〕にいたるのである。
三島はこの縁石列を遁走曲、フーガにたとえたうえで、各々の石を描出しようとするのだ。草紙洗の巨石から黒い石が「わだかまり」、「ついで」…「やがて」…、「そして」芝生の稜線とともに端にいたる。
並の文章家ならば「調和」あるいは「破調」、「リズム」「対照の妙」などといった言葉で片づけてしまうことだろう。
三島の情景描写は徹底して描写的であり、そのような言葉を完全に排除する。それはストイックささえ感じさせるものだ。しかし、次の一段で三島は、己の感性や評者の目を解放する。
それは、水といふ冷たい物質の、はつきりと一線を区切る冷静な直線に対して、石といふ物質の、温かい人間的な気まぐれと屈折とを提示した、皮肉な意匠のやうに見えるけれど、そこには決して過度の皮肉も過度のソフィスティケーションもない。岬の端といふ、水のなかへ融け消える末端へ向つて、草の岬の芝生のスロープは考へられる限りなだらかに、石組はさまざまな繊細な対比を示しつつ、いずれも同じ場所同じ目的同じ到達点で落合ふのであるが、その末端へと向ふ、おそらく解放の喜びとは反対な、寂寞の喜びを現はすのに、草と石とは、おのおの方法を異にしながら、今感じてゐるごく微妙な、かすかな悲しみが含有された、あると云へばあり、ないと云へばないやうな、そのきはめてこはれやすい喜びを、きはめて大切に捧げ持ちつつ、いづれも、できるかぎりその喜びを引きのばしたいといふ欲求においては共通しており、草は草の表現を、石は石の表現の限りをつくしてゐる。そこまで引きのばされた時間は、もはや永遠に似てをり、永遠の近似値である。従つて、この岬の意匠を見ると、音楽が永遠につづくやうな心地へ引き入れられる。
岬全体の眺望してそのスロープを語る、ある意味では情景描写以上に三島らしい文章だが、それは決して印象批評に堕することはない。
再び三島は描写に戻る。
しかし、岬のスロープの微妙さについて語るには、石橋を渡り、林間の小径をとほり、さらに又、一枚岩の端を渡つて、岬の間近で、ありありと眺めなければならない。上から眺めた岬は、何かの堆積が日に融けて、丁度溶けたアイスクリームが乳に還る寸前のやうな、これ以上はひろがりやうはないと謂つた形の、甘いとろりとした岬の背は、どこに立つても、も一つ見とほせない部分をのこしてゐて、あるで息をしてゐるやうな柔軟な起伏に満ちてゐる。

残念ながら、現在の回遊路ではこの岬の上に立つことはできない。南池側からの眺望から想像するしかないが、三島の比喩を駆使した描写は、それを髣髴させるに十分である。
彼はこの岬の記述を次のように締めくくる。
池のむかうからこれを望み、近くからこれをつらつら眺めて、仙洞御所の御庭には、何かきはめて明るい、きはめて現実的な神秘があると感じられた、その根源はここにあつたのだといふ思いに、私は強くとらへられた。
それは、仙洞御所全体が語つてゐる、地上の権力の彼方にある安息の象徴にちがひない。そして安息は決して地上の権力の此方にはなく、その彼方にしかないのであり、それを味はひうるのは、ずつと昔から、権力の内包する苦患に目ざめてゐた人の特権である。しかし、超脱した彼方の生活にも、決して現実感は失はれず、そこには昼も夜も、水へさしのべた岬の甘い澱みが漂っている。それこそ仙洞御所自体が語つてゐる生活の理想にちがひない。
それを支へるものは絶対の静寂だ。
“絶対の静寂”の向うに三島の観ているものは何だろうか。それは“地上の権力の彼方にある安息”、さらにその彼方の悠久の時に磨かれた、ある形而上的ともいえるものであることは確かである。それはきっと三島が独特な捉え方をしていた“雅び”でもあるだろう。そこから彼は、明治の無趣味な宮内官僚が作り直した中国風の石橋や、どこかの大名が寄進した一升石の洲濱、また他の大名による雪見燈籠などの悪趣味を、厳しく糾弾する。“俗”だというのだろう。
ここで取り上げたのは「仙洞御所」の三分の一にも満たない部分でしかない。が、間違いなくその核心である。
なるほど名文ですな。三島はドナルド・キーンによると花の名前も定かでないようなところがあったらしいが、目の前に広がる情景を描き切る文章力は持っていたわけだ。