毎月のうた⋯⋯七月
歳時記的なものを作る人にとって、七月はなかなか難しい月ではないかと思う。二十日あたりまでは梅雨、それ以降はもう八月といっていいような真夏である。風物詩になりそうな趣きのあるものもない。三好達治、大岡信ともに、七月には少々手を焼いた気配が伺える。
■ 三好達治 『諷詠十二月』七月
七月の『諷詠』は、芭蕉の「岩にしみ入る蟬のこゑ」の蝉がシャーシャー蝉かミンミン蝉かという議論が、実地検証の結果、シャーシャー蝉と結論できたという、斎藤茂吉の紹介する話――ほんの申し訳程度の七月の風物――から、漢詩中の漢詩ともいえる李白の『静夜思』へと「話は飛ぶ」。
牀前看月光 牀前月光を看る
疑是地上霜 疑ふらくは是れ地上の霜かと
擧頭望山月 頭を擧げて山月を望み
低頭思故郷 頭を低れて故郷を想ふ
議論となるのは冒頭の「牀前」である。この「牀」が寝床(寝台)か、床机(椅子・腰掛け)的なものかということである。様々な説があるが、井伏鱒二の調べたところでは、前者の寝床説が有力であったということを紹介している。
しかしながら、三好自身は後者「床机」と思っていたし、またそう読むほうが詩としてよりふさわしいとして、次のように述べる。
起句の「牀前月光を看る」は、牀の前に月光の落ちたのをいふので、牀前は、一面牀と月光と兩者の關係位置をいふのであるが、牀を腰かけと見る方の側の感じでいふと、牀前二字は直ちに「我が前」「眼前」をいふのにそのまま全く同意となつて、いふ人がそろそろ枕頭に近づいたやうな(或はその他の)情景の際と比べて、二字の意味あひに多くの徑庭あるを覺えざるを得ない。次句「疑ふらくは是れ地上の霜かと」は驚きをなすのであるから、皤然たる月光を膝下に見る方が、これを窓を隔てて屋外に眺めるよりはるかに迫力に於て勝ものがある。さらに第三句「頭を擧げて山月を望み」は室内のベットあたりからの動作とよりは、屋外庭前の椅子の上に頽然としてある人のものと思ひとる方が、いく倍かまさつて適切でもあり、また素直に自然でもあるまいか。・・・結句の「頭を低れて」は再びもとの姿勢にかへることになるであらう。それらの姿勢はみな臥床の中(或はその他)よりも何倍か牀机の上でのものとして、全く單純に適切ではあるまいか。
ちなみに白川静『字統』で「牀」をみると、
〔説文〕六上に「身を安んずる几坐なり」(段中本)とあり、牀机をいう。牀には坐して安ずるものと、臥して案ずるものがあり、〔詩、小雅、斯干〕「乃ち男子を生まば、載〔すなは〕ち之を牀に寝ねしむ」とは臥息の牀である。
とある。牀については、どちらとも決めきれないが、注目すべきは詩経の小雅、斯干である。当該箇所をみると、
乃生男子 もし男の子が生れたら
白川静 『詩経雅頌』 東洋文庫
載寝之牀 それを寝台にねかせ
載衣之裳 お祝の裳〔はかま〕をはかせ
載弄之璋 半珪の玉をもたせる
其泣喤喤 大きな聲をあげてなき
朱芾斯皇 かがやく朱の膝かけをかけ
室家君主 わが家のあるじたるべき人
「大雅久しく作らず‥‥」と詩経を尊崇した李白である。この「斯干」は、そして「牀」は李白の脳裡に深く刻まれていたはずだ。
“故郷”を思わせたのは“山月”だろうか、私は「牀」こそがそうだったろうと思っている。「男子ならば牀に寝せ、その家長として期待する」。「皇」字あるいは、それをもつ字が繰り返される。進士の身を落ぶらせ、そのような両親、一族の思いに対しては忸怩たる気持ちもあったであろう。牀はその思いを李白に覚ましめ、頭を低れさせる。起句冒頭「牀」の記憶こそが転句に転ずるモーメントの力となって、最後、故郷の二字で結ばれる。そのような力を秘めた「牀」ではないだろうか。
憂愁の詩人と言われる杜甫以上に、李白の憂愁は深い。
■ 大岡信 『芝生の上の木漏れ日』七月
大岡信も七月の本文を蝉の話とその句で始めるのだが、面白いのは、京極為兼と『玉葉集』および『風雅集』に関する次のくだりである。
枝にもるあさひのかげのすくなきに
すずしさふかき竹の奥かな 京極為兼京極為兼は藤原定家の曾孫に当たる人です。鎌倉時代を代表する歌人で、この歌が載る、伏見上皇の命で自ら撰者となった『玉葉集』や、光厳院撰の『風雅集』という勅撰和歌集によって、この時代を先導した人です・・・・
為兼の歌は、その後に生まれてくる俳句をあらかじめ先導したようなところがあって、景色、風物というもののとらえ方が、それ以前、平安朝の和歌などとはがらっと変わっているところが一番の特徴です。目の前に見える世界をモノの動きによってとらえるのです。いろいろなものが動くことによって生じる視覚的な新しい感動というようなもの、それを意識的にとらえようとした面があるのです。『玉葉集』や『風雅集』の特徴は、自然界の動きをとらえるという試みに、歌人たちがいわば集団的に挑戦したという点にあり、やがて起こる俳諧の分野でもそういう動きが絶えず出てくるわけです。そういう意味では現代俳句にも、そうとう近しい世界がそこにあるわけです。
さらに
・・・・「すずしさふかき竹の奥」と七五にして、この上に何か季語を一つでも載せればそのまま近代俳句になるというところがあるのです。『玉葉集』や『風雅集』くらいの、鎌倉時代末期のころの歌になると、もうすでに近代俳句の世界にまで接しているものがあるという意味でおもしろいなと思っています。
『芝生の上』では『玉葉集』や『風雅集』の後世への、すなわち俳諧、俳句の成立への影響を述べるにとどまっているが、文学史的には、平安和歌から叙景歌の独立という観点が不可欠なはずである。それが併せ論じられるべきだ。ここでは同じ大岡信がフランスで行ったすばらしい公演の記録『日本の詩歌 その骨組みと素肌』(岩波文庫)から補足しておこう。
大岡氏の、鎌倉時代における叙景の歌の成立についての論述の要旨である。
日本の分か、文学や美術などを本質的に通底する審美尺度は、「自分自身の心の深さや高さ」で測る、すなわち美に対する主観性の高さにある。それが最も特徴的に表れるのが、相聞、すなわち恋の歌であり、主語が不明瞭な日本語の言語的特性とも相俟って「日本では風景や自然を歌う『叙景歌』がじつは、本来恋心を歌う『抒情歌』として機能すべきものであった。
このように総括するのである。
ここからは、いろいろ教えられることが多い。例えば、『源氏物語』の野宮での叙景、あるいはすまでの“心づくし”の叙景、これはそのまま光源氏の抒情であり、そのまま御息所への、また京の紫の上への相聞歌となるものである。藤原俊成の「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」(『六百番歌合』)という言葉、歌を学べではなく物語を読めということとの真意は、ここにあったのだと思い至った次第だ。
しかしながらその反面で、大岡信のいうように「主観性の内部にだけ閉じこもって、明確な主体と客体の区別さえない抒情の世界に包みこまれていた平安時代の長いまどろみの時」を現出させることになったのである。
そこからどのように新しい歌は生まれたか、さらに『日本の詩歌』から引用しよう。
風景を純然たる風景としてしてとらえ、その動きや静止、光と影の多様な変化、季節の推移その他を、まさに十九世紀印象派画家の先駆者ともいうべきみごとな自然把握によって示してくれた一群の自然詩人たちが現れるのは、平安時代が幕を閉じ、武家を新しい主人公とする鎌倉時代が始まって約一世紀が過ぎた十三世紀末、十四世紀前半の時代です。
彼らの作品は『玉葉和歌集』および『風雅和歌集』という二つの勅撰和歌集に収められていますが、その代表者である京極為兼、伏見天皇、その妃永福門院らの歌には、外光、外気のさわやかな感触が感じられる。自然の動的な把握による描写がありました。平安時代の叙景歌が、作者の内面風景そのものであるという、濃密な主観性によって塗りつぶされていたのに較べ、彼らの風景描写には、外界にふくすさぶ、新しい時代の風が吹き入っていました。
それは大岡信が、平安朝の歌のようにパラフレーズする必要のないと言う、近代的リアリズムの叙景歌であった。
和歌の世界では、定家らによって究極の言語美にまで磨き上げられたその中で見失われた人間性、その回復こそ、兼好や運慶・快慶、親鸞などの文化全般からの「新しい風」だったのだろう。それは逆説的な意味で、叙景歌の独立がすなわちリアルに景物をみる人間の眼の、そして人間性の回復だったのだ。
日本のルネサンスは、この時代に始まったように見える。
最後にこれらの自然詩人の歌を『日本の詩歌』から引用する。
宵のまの村雲づたひ影見えて
山の端めぐる秋のいなづま 伏見天皇月や出づる里の光の変るかな
涼しき風の夕やみのそら 伏見天皇山もとの鳥のこゑより明けそめて
花もむらむら色ぞ見えゆく 永福門院真萩ちる庭の秋風身にしみて
夕日のかげぞかべに消えゆく 永福門院