毎月のうた⋯⋯九月
秋が短くなったとか、無くなってしまうのではという事を時々聞くようになった。今年の夏は確かに、そう思わせる異常さだった。近年の四季感が変わっているのではないか。私が住む横浜で実感する四季分けである。梅雨も一つの季とせざるを得ないという気がする。
春 3月上旬~5月中旬 2ヵ月と2旬
梅雨 5月下旬~7月中旬 2ヵ月
夏 7月下旬~9月下旬 2ヵ月と1旬
秋 10月上旬~11月上旬 1ヵ月と1旬
冬 11月中旬~2月下旬 3ヵ月と2旬
秋は夏と冬に領域を両側から奪われているようだ。このまま温暖化(夏も暑くなるし冬も寒くなる)が進むと、本当に秋らしい秋は無くなってしまわないか、心配である。
■ 大岡信 『芝生の上の木漏れ日』九月
九月は実質まだ夏である。今年はそれを実感したが、大岡信は、このような秋をうまく詠んだ上島鬼貫の句を紹介している。
朝も秋ゆうべも秋の暑さ哉 上島鬼貫
これも立秋から間もないころの句です。朝だって秋だ、夕方だって秋なんだ、だけど、なんとも暑くてたまらない、という意味です。洒落た句ですね。
月末になってようやく秋らしくなってきた。
秋風吹きわたりけり人の顔 上島鬼貫
何の変哲もない叙述ですが、すごくうまい句です。秋になったころ、秋風の吹き渡っていく感じですが、「人の顔」という素材をもってくることによって明確になり、季節の本質的な気分をしっかり掴み取っています。
街に出ても人々の顔が秋の顔らしくなってきている。この句が気づかせてくれた秋である。
■ 三好達治 『諷詠十二月』九月
『諷詠』は八月に続き九月も漢詩だが、邦人による日本漢詩である。菅原道真の漢詩および和歌を各々数篇みたうえで、次のように述べる。
(漢詩という)この新分野新領土に於て、如何に我々の敍情精神が自由にのびのびとした濶達な表現世界を見出したか、繊細優美の點では殆んど加えるもののない萬葉以來の和歌――主として短歌の伝統、そのいみじき繼承發展もさることながら、日進月歩の諸文化の駸々として止まるところのない勢ひの自ら赴くところ、遂にかの和歌短歌の優美にのみ跼蹐し了るを欲しない複雜深刻勁健幽玄の詩情が、やがてこの新分野に於て如何に適切なる詩形式とその溌剌たる活作用とを見出したかに就て、その運り合せの運と、その困難の克服と、そのまた詩情の旺盛とに就て、ほとほと驚嘆せざを得ざる底のものを覺覺えるのを常にしてゐる。
‥‥この詩的新領土に向つて、我らの最優秀の作歌達が相並び相競つて突進していつたのには、勿論それ相應の止むにやまれぬ理由があつたものとみなさなければなるまい。それを單に漢土崇拝外物心醉の物好きや流行からばかり皮相な現象と解しては、事實の眞相を見ざる短見に堕するに違ひない。
そしてその“事実の真相”については、
事實の眞相とは何か。先にも一寸一言したやうに、我らの國風の傳える詩歌――和歌短歌のみを以てしては、到底胸中の鬱懐を吐露し盡しきれない程度にまで、漢學普及以來の我國知識人の思想も情操もその創作慾望も進展し成長し複雜化し來つてゐたのである。それ故にこそ道眞の如き醇乎たる國風の作家さへもまた一方にはその衷懐を漢詩に託して數々の名作を後世に遺して、我々の文學的遺産を豊富にする點でまた人後に落ちず自ら率先したのであつた。
三好達治は、漢詩については自ら門外漢と卑下しつつ、次のように語る。
專門家の漢詩作家達は彼らの專門意識から極度にその詩作に――詩語詩趣に和臭の存するのを忌避し、嫌惡する風を見るが、筆写のやうな門外漢はいつかうに嗅覺も鈍感なところから、どの邊のところをそもそも和臭といふものかさへもさだかには見當がつきかね、從つてさういふ點で詩品の上下を鑑別する神經も才覺覺も持ち合せず、ただ讀後に何らかの詩的感動詩的印象の鮮明なるものをさへ感受できれば、以て佳作とし秀詩とする極めて單純な風賞の仕方で、幾年以來諸家の作を讀み來り讀み去るを習慣としてゐるが、それでも自分一個としては充分み解鬱の用に足り、銷閑のよすがとしてはこの上なきものと信じつづけている。
このように日本漢詩をいわゆる“和臭”的なものとして、否定的にとらえてはいない。ここで思い出されるのが、大岡信が『菅原道真』で展開した「うつしの美学」である。ここで詳しく触れることはしないが、三好が後半で取り上げる、龜田鵬齋、廣瀬淡窓らの詩を「うつし」という観点から読むのもおもしろいだろう。「うつし」の元詩は、言うまでもなくあの柳宗元の「江雪」だろう。
江月 龜田鵬齋
滿江明月滿天秋 滿江の明月滿天の秋
一色江天萬里流 一色の江天萬里流る
半夜酒醒人不見 半夜酒醒めて人見えず
霜風蕭瑟荻蘆州 霜風蕭瑟たり荻蘆の州江村 広瀬淡窓
數家籬落水東西 數家の籬落水の東西
蘆荻花飄雨後風 蘆荻花飄へる雨後の風
日暮釣魚人已去 日暮釣魚の人已に去り
長竿挿在石磯中 長竿挿んで在り石磯の中(参考) 江雪 柳宗元
千山鳥飛絶 千山鳥飛ぶこと絶え
萬徑人蹤滅 萬徑人蹤滅す
孤舟蓑笠翁 孤舟蓑笠の翁
獨釣寒江雪 獨り釣る寒江の雪
柳宗元の「江雪」は名詩中の名詩であり、その研ぎ澄まされた詩語・詩趣は比肩するものがないだろう。一方の「江月」「江村」、秋の叙景であろうが、やや穏やかな和風にうつされているようにも思える。
さらに、和臭の極みというよりも漢詩とさえも扱われなかった良寛の“漢詩”、われわれはどうしてあれほどの感銘を受けるのだろうか。われわれは果たして李白や杜甫の詩さえも“和臭読み”をしてきたのではないだろうか。
大岡信の「うつし(移し)」についても、もっと考えてみたいと思っている。