毎月のうた⋯⋯十一月
現役時代サンフランシスコに何度か行くことがあったのだが、かの地の気候も相当に変則的なものだ。マーク・トウェインが「私の経験した最も寒い冬はサンフランシスコの夏だ」と言ったとか。私も8月に恐ろしいほど寒い目にあった。また、11月に「インディアン・サマー」、日本で言えば小春日和のようなものだが、気が狂いそうに暑い目にあったことがある。当時は、何と日本の気候風土は素晴らしいんだろうと思ったものである。しかし、これは少々怪しくなってきた。木枯らし一号が吹いた直後に夏日であり、昨日は突然に冬、そして今日はまた夏日に近い気温らしい。
■ 大岡信 『芝生の上の木漏れ日』十一月
大岡信の十一月のテーマは「時雨」と「木枯らし」だ。
「時雨」については『後撰集』の次の歌がひとつの規範歌になったことを述べる。
神無月降りみ降らずみ定めなき
時雨ぞ冬のはじめなりけり よみ人しらずこの歌一首で、平安朝以降の季節感覚のなかでの時雨というものの位置づけがピシッと決まったのです。日本人の季節感が決まったと言ってもいいのです。こういう歌の先蹤があったから、それを受けて後世の人たちが競うようにして時雨というものを材料にした和歌や俳諧を作ったということになります。詩歌というものは、ときどきたいへんな威力を発揮するのです。
勅撰集の世界から目を歌謡の世界に移し、鄙廼一曲〔ひなのひとふし〕の『さんさ時雨』をとりあげる。
さんさ時雨か 萱野の雨か
音もせで来て 濡れかかる 鄙廼一曲
大岡信は日本の詩歌史における歌謡を非常に重視する人だが、「さんさ時雨」のような俗謡にも和歌の伝統が滲み出ていることを指摘する。「自然界の現象が男女の恋愛とつながっている。――これが日本の詩歌の大きな特徴です。」
さらに時雨について去来の句
凩の地にもおとさぬしぐれ哉 向井去来
この句は、時雨の性格づけに大きな力があった、と言えます。さっと降ってきた時雨は、木枯らしに吹き散らされて、地面にまで落ちてこない。――そのくらい細かく軽やかだということです。………
これは明らかに、さきの〈神無月降りみ降らずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりけり〉の和歌とも呼応しあっていて、時雨の日本人におけるひとつの実感をあらわしているのだと思います。
話が横道に逸れるが、三冊子に去来が誠実に記す話は面白い。原作は〈凩の地迄おとさぬしぐれ哉〉の「地迄」を、芭蕉は「いやし」として「地にも」と改作指導をしたのである。
………それ(原作の「地迄」)を芭蕉先生は「いやし」、つまりいかにも説明しすぎてふくらみがなく見苦しい、と言って、「地にも」と変えさせたのです。すごい批評力をもった先生だったから、そういうことがパッとわかるわけですが、「地迄」と「地にも」ではどれだけ違うか? そのわずかに助詞を変えたことが感受性においてピッとわからないと、この話は「なあんだつまらない」ということになりますね。「地迄」といえば、雨は地面にまで届かないということだから、そこに理屈がはいっている。――そうした理屈でいえば「地迄」でもいいんだけれど、「迄」という理屈を消してしまって、「地にも」とかろやかに言い直させたところに芭蕉の力量があって、そこがとてもいい。
「時雨」、「木枯らし」に戻ろう。
大岡信は先月、「酒」の詠み方のについて和歌と俳句の特性上の違いを述べていたが、今月は「時雨」と「木枯らし」からみた和歌と俳句の特性差を興味深く説明している。
「時雨」と「木枯らし」を比べた場合、私の考えでは、「木枯らし」のほうが「時雨」より俳諧向きだと思うのです。なぜそう思うかというと、俳諧は移り動いてゆく現象そのものを詠むというよりは、それによって影響を受け、急にハッと意識に上ってきたもの、その事物とか事象をパッととらえたときに印象が鮮明になる場合があるからです。
この視点から「木枯らし」の名句を数首紹介している。句のみを引用しよう。
凩の果てはありけり海の音 池西言水
木枯らしや水なき空を吹き尽す 河東碧梧桐
木枯らしや目刺しにのこる海の色 芥川龍之介
海に出て木枯帰るところなし 山口誓子
木枯らしと海との連想のつながり、南国育ちの私にとっては意外なものだった。
■ 三好達治 『諷詠十二月』十一月
山部赤人の万葉歌
田兒の浦ゆうち出て見れば真白にぞ
富士の高嶺に雪はふりける 萬葉集卷三 山部赤人
その新古今集時代、百人一首での改作、
田子の浦にうち出て見れば白たへの
富士の高嶺に雪はふりつつ
につき、百人一首歌への批判はすでに語り尽くされている感があるが、この批判はいつの時代から言われているのだろうか。真淵や契沖あたりは何か語っているのだろうか。子規やアララギの歌人あたりからだろうか。
三好達治も百人一首歌へは手厳しい。
………富士の高嶺に雪のふりつつあるのが、田子の浦にうち出でた海の上から、たとへ遠眼がねを用ひたところで見えやう譯もないのを、ただs「雪はふりつつ」といつたやうな、何か一寸上等らしい口吻を用ひてみたいばつかりに、かうつまらぬ改作を試みたのであらうかと推測してみると、まことに噴飯にたへないものがある。「雪はふりける」とただまつ直ぐに事實をのべる、その眞実の美學を見失つて、「白たへの富士の高嶺に」などとかつたるい一方の粉飾を施して、言語の表面的な手ざはりにのみ甘心し満足してゐた、新古今集の歌人たちこそは、何とも今日の我々からは理解に困難な心理の昏迷状態に陥ちてゐたものと稱してよろしからう。
そして赤人の歌は「『雪はふりつつ』などと、言語表象の玩具を弄んだものでは斷じてない」と結ぶ。
定家も万葉歌に比して、散々である。
秋萩の枝もとををに露霜置き
寒くも時はなりにけるかも 萬葉集卷十
苦しくも降りくる雨か三輪の崎
佐野の渡に家もあらなくに 卷三 長奥麻呂かく微物を詠ずるにも旅中の一些事を詠ずるにも、明確にして紛れのないレアリテの把握が簡率にしつかりとしてゐるのが上代歌謡の常であつて、
旅人の袖吹きかへす秋風に
夕日さびしき山のかけはし 新古今集羇旅 藤原定家
駒とめて袖うち拂ふかげもなし
佐野のわたりの雪の夕ぐれ 新古今集冬 同といふやうに世も降り歌風が次第に轉化し來ると、風景そのものが何かしら舞臺装置の書割りめいたものに類型化し來り、「駒とめて袖うち拂づ」そのしぐさが見物の豫想に入れたお芝居めいて感ぜられるのを如何ともしがたいやうに思はれる。
さうして、つまり先にあげた春海なども、この定家流の新古今的技巧主義の末流であつて、先にいった簡樸明確な詩歌のレアルテは、そこにはもはや喪失されて見出し難くなつてゐる。
三好達治は「レアリテ(リアリティ)」という視点から新古今とその末流を難ずるのだが、そこからリアリティの回復の道として、実朝、真淵、良寛などがとった復古主義、万葉ぶりに対し、香川景樹、桂園派のそれらとは違う新しいリアリティを見出そうとした努力を高く評価する。景樹の歌をとりあげて、次のように述べる。
おのづからふむ人もなき我門の
桐の落葉の露のさやけさ
夜をさむみねざめねざめて明方の
霜とともにも結ぶ夢かな
てる月の影の散り來る心地して
よるゆく袖にたまる雪かな本來現實の映像であり、現實の約束手形であつた言葉が、その現實性〔レアリテ〕を喪失して形骸のみの言葉そのものとしてとり残された時、その摩滅した習俗用語を驅つて、そこに景樹の創造せんとした右(上)の如き歌詠に於けるレアリテは、もう一度出發を新らしくし、原初の簡明質樸な手段にまで立ちかへつてとり戻戻されたところの復古派のレアリテとは、自らその撰を異にしてゐることはいふまでもない。
それは「文學的傳統習俗が失ふべくして見失つた詩的實体を、その喪失の上に立つてもう一度再發見せんとする非常に困難」な道でもあったと言う。
最後に景樹の歌、
浮雲は影もとどめぬ大空の
風に殘りてふるしぐれかな蓋し一世の名吟であらう。
新しく見出したリアリティとは、どういうものなのだろうか?