モーツァルト器楽曲の「ブッファ調」その3-変ロ長調系統(2) Part 2
③ K.358(186a)変ロ長調 第3楽章のブッファ調
2曲の4手のためのピアノ・ソナタ、ニ長調と変ロ長調を比較すれば、第3楽章において第1、第2楽章では見られなかった大きな進歩があったことは、一聴すればただちに確認することができるだろう。第1主題後半のシンコペーション風の強拍、弱拍の連打、それ続いてブッファ的な音楽が展開していく。以下、第1主題部の楽譜を掲載するが、連弾の楽譜は観賞用には非常に読みにくいため、第1奏者のパートのみを示した。
この楽章については毀誉褒貶が激しいが、ハッチングスがこの楽章を難じている評者の例を紹介している。
Several writers commend the slow movement but regard the last movement of K.358(186c) as the emptiest of the six finales. If one set out with ‘ the art is not entertainment ‘ text, a large amount of Mozart’s finest work, including the deservedly popular Sonata in D for the two pianos , K.448(395e), and some finales of his concertos, could illustrate a sermon on vanity. If one does not, the finales of K.358 is particularly enjoyable.
【試訳】
緩徐楽章を推奨はしているが、K.358(186c)の最期の楽章を6つのフィナーレ(5曲の4手ソナタと1曲の2台のピアノ・ソナタ)の中で最も中味が空っぽなものだと見ている評者が幾人かはいるのである。また「芸術は娯楽にあらずという主張を始めるなら、人気があるのが当然でもある2台のピアノのためのソナタK.448(375a)や、最も魅力のある輝かしい彼の協奏曲のフィナーレを含めて、実に多くの最上の作品は空虚さを説くものであることを示すことになるのだ。こうした主張をしなければ、K.358のフィナーレを特別に楽しいものになるのである。
全く同感である。「楽しい」をさらに突き詰めなければならない。私はそれはブッファ感に他ならないと思う。
K.358(186c)でのブッファ調音楽の展開は、前作K.381(123a)には見られないものである。もしK.381(123a)が素直にイタリアのオペラ・ブッファの、あるいはその影響下にあった「ブッファ交響曲(ラールセン)」と軌を一にするものならば、K.358(186c)に見られるブッファ調は、イタリア風から次第に独立したモーツァルト独自のものへと発展していく姿を示しているのだと考えられよう。これが、後の『フィガロ』や『ドン・ジョヴァンニ』のレポレッロの、さらには『プラーハ交響曲』などのニ長調系統のブッファ調へとつながることを予感させるだろう。
このK.358(186c)のフィナーレは変ロ長調ながらニ長調系統のものに近く、前回みた管楽器のためのディベルティメントのようなブッファ調独自旋律を持ってはいない。中間的なものと言えるだろう。
③ 私の愛聴している演奏
Part2で取り上げた演奏は著作権保護期間を過ぎた、クリストフ・エッシェンバッハとユストフ・フランツのもので、いい演奏のひとつである。しかし私が最も愛聴しているのは、デジェ・ラーンキとゾルタン・コチシュのものである。昔NHK-FMで、2人のスタジオ・ライブ録音で全曲が放送され、吉田秀和氏が絶賛していた。「連弾では第1奏者の左手と第2奏者の右手が衝突してつき指をしやすい。それを恐れてつい演奏が萎縮しがちだが、この若者たちの演奏には、それを全く感じさせない」といった趣旨の話だったと思う。カセット・テープに録音していたが、転居などの際に紛失してしまった。今だに残念である。後にレコードでスタジオ録音が発売され、またCD化もされている。若々しい活気溢れたドライブ丱は他には聴かれないものだ。
K.381(123a)についてはインターネットにも優れた演奏動画が公開されている。
Lucas &Arthur Jussen
https://www.youtube.com/watch?v=STJtvV4bj9I
Maria Joao Pires and Martha Argerich
https://www.youtube.com/watch?v=1W_i4jAeuKg&t=172s
面白いことに、K.381(123a)の演奏はアマチュアをはじめ多くの演奏が公開されているのに対し、K.358(186c)はひとつも見当たらない。吉田秀和氏が「私もよく弾いた、非常に楽しい曲だ」と言っていたが、作品としてもより優れた演奏効果の高い曲だ。なぜなのか、私には分からない。