モーツァルト ピアノ・オーボエ・クラリネット・ホルンおよびファゴットによる五重奏曲 変ホ長調 K.452 その3

 前2回は少々遊びすぎてしまった。私とこの曲との“つきあい”について述べてみたい。

 交響曲第40番はピアノ協奏曲第20番などの有名曲に始まり、ほとんどのモーツァルトの曲を聴き、多くの著作などを読んだり、とかなりのめり込むようになっても、なかなかこの曲との距離を縮めることはなかった。おそらく、私だけではなかっただろうが、この曲の楽器編成、ピアノと4本の管楽器という“変てこな”室内楽に、何となく親しみを感じられなかったのだ。
 当時はLPレコードの時代で、録音自体がすくなかった。私の持っていたLPは、ウィーン八重奏団の輸入廉価盤で、A面がクラリネット五重奏曲K.581、B面がこのK.452であった。A面を聴いた後、裏面に行くという気持ちが萎えてしまうのだ。この時代、この曲はBクラス打者だったのだ。

 1枚のCDを買ったことで、この曲のすばらしさに気づくことになった。もう30年以上も前になるが、地下鉄の通路などで正規流通に乗らないCDをよく販売していたものだ。この“道端CD”で買った『鱒』の五重奏曲、表紙にはそれ以外何の表示さえなく、LP時代と同じく、付録のように付いていたのが、「クラヴィーアと木管のための五重奏曲」だったのである。
 ウィーン合奏団(Wiener Kammer musiker)という演奏グループのものだ。録音年および著作権登録の表記もないものだ。少々怪しい感のあるCDであったが、そのゆっくりとした演奏はなかなかなものだった。今でも、私の一番のお気に入り演奏である。

モーツァルト ピアノ・オーボエ・クラリネット・ホルン・ファゴットによる五重奏曲 変ホ長調 K.452 第1楽章
同 第2楽章
同 第3楽章

K.452 第2楽章 提示部 ピアノの分散和音伴奏の上でのテーマの受け渡し

 序奏について見たように、この曲の大きな魅力となっているのは、楽器の組み合わせによる色彩感もさることながら、やはり楽器から楽器へと受け渡されるフレーズや小断片の扱いの巧妙さだろう。それは楽器が交替するごとに、そのフレーズや小断片のニュアンスが変化していく。
 これはモーツァルトがウィーンに移って以降、ピアノ協奏曲第11番K.413、第12番K.414、第13番K.415などで試みられてきた、主題の分割およびその断片のが楽器間での“受け渡し、ここではそれが管楽器同士であることによって、はるかに効果的なものになっているのだ。あるいは管楽セレナーデ(ex. K.375)やピアノ協奏曲第15番K.450での木管使用の方法の革新、それらの集大成の感がある。その意味でシンボリックな、道標となる作品なのである。
 この“受け渡し”は、全楽章にわたって見られるのだが、特にそれが極大化されるのが、第2楽章ラルゲットでの、ピアノのアルペジオ伴奏の上で、4本の管楽器が微妙に変奏されり、分割されたテーマを次々と受け渡していくところである。単純な同じ断片の受け渡しよりも、はるかに巧妙で、耳が捉える以上に複雑である。モーツァルトの全作品の中でも、屈指の美しい箇所であり、提示部での反復され、さらに再現部のあることがこれほどありがたいと思う曲はあまりない。「夢見心地」という言葉がぴったりだ。

 これほど美しいフレーズなのだが、これは第1主題に続く、単なる経過部的なものなのだが、最上の“受け渡し”のパートだ。その後の目立たない数小節の第2主題、これほど矮小ともいえる扱いをしたのに対し、この長く美しいパート、モーツァルトの主旨はここにあったとしか思えない。経過部に非常に美しいメロディーをもってくるのは、モーツァルトにとって特に異例なことではない。

 アーベルトが、

……larghetto : its main emphasis lies on its main theme than in broken chords. It’s notional climax is the new theme in development section.

 【試訳
 この曲の主たる力点は主要主題にあるのであり、分散和音にあるのではない。概念的には、曲の頂点は展開部の新たな主題にある。

と書いているが、必ずしも賛同することができない。第1主題がこの楽章の管楽セレナーデ風の曲趣を決定してることは間違いない。また確かに、展開部のホルンに先導される新しい主題も印象的ではあるが、これも断片化されて次々と受け渡されていくのだ。

 このように見ると、ラルゲットを含む、この曲の最大の魅力は、フレーズと小断片の巧妙な受け渡しの技法の完成度にあるのであり、5つの楽器の音色の多彩さでそれをより効果的なものとする技量の成熟度にある、と言うべきだろう。

 ともあれ、このK.452という曲は、私のモーツァルトとの“つきあい史”の中で最も大切な曲のひとつであり、また最も不思議な曲でもある。何度聴いても、聴くたびに新しい発見、新しい魅力を見つけ出すことができる曲なのである。
 最近は、youtubeなどでもこの曲のライブ演奏の動画が上梓されるようになってきた。昔では考えられないことである。演奏のレベルも高い。いくつかある中で、私は次の演奏が好きである。

Whittington International Chamber Music Festivalライブ 

 特別な名手を揃えた演奏よりも、気心の知れた仲間同士感のある演奏の方が、私にとっては好ましい。

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