毎月のうた⋯⋯三月

我が家のお雛様

 毎年二月末になると、昨年仕舞った雛人形を取り出す。孫娘のためである。娘が家が狭いと言って、我が家を物置きにしているためだ。
 このお雛さんが我が家に来てからもう四十年になる。妻の実家から娘の誕生祝いにもらった一段飾りの木目込み人形であるが、取り出すたびに、いつも真新しいお姿である。さすがに燭架の和紙だけはやや黄ばみが出て来たようだ。

 大岡信の三月のうたは、この雛人形を取り出した時の感じ方の二様をうたう句から始まる。

■ 大岡信 『芝生の上の木漏れ日』三月

 三月は、榎本其角と近世の渡辺水巴という俳人の句をまず取り上げている。

綿とりてねびまさりけり雛の顔      榎本其角

箱を出て初雛のまま照りたまふ      渡辺水巴

 両者とも、それなりの実感があるのだろうが、我が家の四十年雛はまだまだ初雛の部類なのかも知れない。
 その他、雛祭りの句が数首取られており、いずれも優しくまた易しい句である。しかし“節句”という伝統行事を紋切りでなく、易しく詠うというのは、非常な力量を必要とするものだろうと思う。

 今月の大岡信で面白いのは、三月の花である“桃”の話である。引用しよう。

……『風俗文選』に森川許六自身が書いた《百花譜》という文章があります。引用します。
「桃は元来いやしき木ぶりにて、梅桜の物好、風流なる気色も見えず。たとへば下司の子の、俄に化粧〔けはひ〕し一戚を着飾て出たるがごとし。爛熳と咲みだれたる中にも、首筋小耳のあたりに、産毛のふかき所ありていやし」
 許六の桃に対する見方は、“庶民的な花”ということを強調するためもあったでしょうが、桜に比べるとだいぶ評価が低いかたちになっています。

 読んでいて、桃の花がかわいそうになる。そこまでいじめなくてもいいじゃないか、と言いたくなるほどだ。

 一方、桃の花をくたすだけではなく、桃の花らしさをずばりと捉えているのが蕪村であるとして、次のように述べる。

 しかし、古典的な詩歌や文芸の世界ではそうだったとしても、蕪村は違っていました。

   桜より桃にしたしき小家かな      与謝蕪村

 という句を作っているくらいです。
 
この句はさすがに蕪村らしい見どころです。庶民的な小さな家に住んでいる人々にとっては桜よりは桃のほうがもっと親しいという感じがあって、それを外側から鑑賞するとこういう句になる、と言っていいと思います。
 
ただし、その蕪村にしても、元来は桜のほうが桃よりは上位になるという一種の前提をバックに、こういう句を作っているわけです。そういう意味では、これは実に日本的な美意識だと思います。

というのも、中国の美意識では、桃色や赤などの鮮やかな色が重んじられ、「桃源郷」ということばさえあることが披露される。海棠や牡丹なども中国産でその仲間だろう。

 私の妻の両親は山梨出身である。武田と桃は不可侵の至宝なのである。武田の滅亡した新府、ここの桃をよく自慢していたものだ。今は観光のためもあろうが、新府桃源郷と呼ばれている。俗な名を付けるものだと思ったが、一面の桃畑、花の時季に訪れると、陶淵明ではないが、別世界に迷い込んだような気持ちになる。捨てたものでもない。

■ 三好達治 『諷詠十二月』三月

 大岡信の二月では石田波郷の句を最初に取りあげたが、今月の『諷詠』は波郷の作から始められている。当時(昭和17年ころ)まだ三十歳の新人俳人だったらしい。

   初蝶やわが三十の袖袂       波郷

……ふいとどこからか舞い出たばかりの胡蝶の姿を途上に見かけて、しばしば餘所事を忘れ了るほどの感に打たれることがある。句はまさにさういふ瞬時を捕へて、その瞬時のほんの一刹那の心理の閃めきを更にまた敏捷に捕捉して、素直に品よく詠じている。わが三十の袖袂、は作者にしてみればさういふ微種微妙な自己不満をも同時にそこに交へて、微妙ながらも強く感じた、それは深刻といふではないがしかし可なり複雑な心理を詠じたもののやうに、私にはまづそんな風に讀みとられるのである。さうしてさういふ風に受取って、その表現の直截輕妙なのと、その心理の雅趣を失せずして甚だ可憐なのとに強く心を惹かれないではゐられない。

 「わが三十の袖袂」の読み方には学ばされたが、感じ方は読む人にとってさらに多様であり得るだろう。作風については“可憐”という語で言い切っている。そしてその可憐の作としてさらに次の“山間に住む老人”の“無邪気な可憐の作”を取り上げている。

   鳥のきて踐みても消ゆる春の露

 著者はここで時季の作をはなれて、この“可憐”ならびにその対概念である“匠気”についての見解を展開する。ここではその一部概要にだけ触れておこう。

 可憐なる詩趣とは

拙でなく巧でなく、輕俊でもなく莊重でもなく、俗にも堕ちず、質樸に近けれども洒脱といふのではなく、雅馴ではあつても生眞面目ではなく、輕快ではあつても尖鋭とまではゆかず、淺からず深からず、――つまりさういふ風の人間が世間に少ないやうに、さういふ風の一種中庸の眞を得た作品といふものを索めてみると案外にその数の乏しいのを知るのである。

 この可憐な詩趣の事例として「書家の書、詩人の詩を蔑視するかの良寛」を取りあげたい、としながらもすでに取りあげた(一月)ため、ここでは太田垣蓮月を引き合いに出している。この季のもの二首をここでは引用しよう。

在明の霞ににほふ朝もよしきさらぎ頃の夕月もよし

山里は松の聲のみ聞きなれて風吹かぬ日はさびしかりけり

 何の解説の必要もない、気負いのない歌だ。

 そして“匠気”というものについて、次のように述べる。『諷詠』で取り上げると当時の職業詩人に対する気配りや、自ら省みる気持ちもあるのだろう、やや歯切れの悪さもある。

 さてこの匠氣とは何であらう。惠門作家や職業作家の場合に常になぬがれ難く形影相伴ふが如く相伴つて見える、それを良寛の忌避したといふこの匠氣とは。
 それはいはば惠門作家職業作家の外ならぬ存在理由そのもののやうな性質のものであつて、それによつてこそ藝術ははじめてその作家からさへも完全に獨立して、即ち公共的な一個の何ものかになりうるところのもの――とさへも少し觀點を變へて考へれば考へうる筋合のものであらう。
 言を換へて云へば、單一な個人的述懐告白の立場を離れて、何らかの意味で、公共の代辯者とならうとする意欲の存するところに、即ちこしらへごととしての匠氣は兆して來るのであつて、そこに置いては、作家一個の世界に屬するものと、讀者の分として何ものかの表現とが、不可分離に一體となつて仮合し融合して、その作為や表出の出發となつてゐるものと見るべきであつて、さう考へる時、匠氣は即ち藝術世界の積極的の努力や企画の證左のやうなものと見なされ、その方角にこそ文學詩歌の眞の大乗道の存することも從って肯かれるであらうかと考へられるのである。

文中の太字は、原文では傍点

 この議論はおそらく混乱を生むことになるだろう。匠気、可憐さとは、公共性と個人性だけの問題ではないだろうし、良寛や蓮月などは小乗道なのか。“匠気”ではない、別の概念で語る必要があるように思う。

 最後に才気も匠気も「殆ど夜半亭蕪村翁に相拮抗せんばかり」である與謝野晶子の歌を取りあげている。十首中季のあうものを三種引いた。

十餘人縁に並びぬ春の月八坂の塔のひさし離ると

わが肩に春の世界のもの一つくづれ來しやと御手思ひし

垂幕もとばりも春は襞つくれ思ふ人らのたはぶるるごと

等々の歌をあげているが、

さてかくの如くその絢爛と輕俊とはまさに相匹儔するが、しかしながら蕪村翁の切實と沈痛とは、つひにこの作者に於て見出し難いのを嘆ずるのは、恐らく私一人ではあるまいかと思われる。

と結んでいる。

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