モーツァルト 弦楽五重奏曲 第6番 変ホ長調 K.614 その4
最後にこの『弦楽五重奏曲 変ホ長調 K.614』を非常に高く評価、というよりも、モーツァルトの全作品にあっても至上最高のものとしている二人の論評を見てみよう。アンリ・ゲオンとC・M・ガードルストーンである。ゲオンは詩人である。ガードルストーンは音楽学者であるが、音楽におけるインスピレーションを非常に大切にした人である。
彼らのこの曲の捉え方は共通している。
ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲へとつながっていくような「純粋な遊び」「知的遊戯」、彼らの感性が捉えたモーツァルトの到達した「音の遊戯」は、人間の肉体を離れ、自然と一体となり、そして天上へと昇華する。彼らはこの曲にこのような超越性を聴きとっているのである。
彼らの評、いやそれを超えた讃嘆の言葉を見てみよう。
■アンリ・ゲオン『モーツァルトとの散歩』(1932)より
ゲオンはこの本の第十一章の一節をまるまるこの変ホ長調五重奏曲に宛てている。オペラを除けば、著作中最も長い記述の曲のひとつである。この章の題は「死の予感」であるが、ゲオンはこの曲に死の予感を感じてるわけではない。晩年の清澄な諦念とも言われる一連の曲とこの曲は、表現しようとしているものが違うのだ。彼は、それが「持てるものをふんだんに注いだ豊かさの配合である」と言う。持てるものを削ぎ棄てて「純粋さ」だけが残ったような、晩年の作品との差異を一言で言い切っている。ただし、この五重奏曲はいささかも純粋さはそこねていない」とも語る。
全文を読んでいただくきではあるが、あまりに長文である。果たしてゲオンの真意をどれだけ伝えられるか不安であるが、核心と思えるところを引用してみよう。
四月十二日と書き込まれた『弦楽五重奏曲変ホ長調』(K.614)は、これらの多彩な秀作にひときわ高くそびえている。晩年の黎明にモーツァルトにひらめいた、たとえようもなく若く明るい霊感がここに集中して白帆のように彼をふくらませ、無数の小鳥たちがまどろむ幻想の木立に風を送るように、彼の数知れぬ木の葉に風を吹きこんだようである。小鳥たちはつぎつぎに目覚め、あるいは低く、あるいは高くさえずり、ヴォカリーズやトリルをまじえて、比類のないコンサートを繰りひろげている。
『モーツァルトとの散歩』 高橋英郎訳 白水社 (旧訳)
モーツァルトは純粋な遊びの権利をかち得たのだ。言いかえれば、テクニックの全く自由で完璧な使用法を手に入れたのである。それはあらゆる処理法を……しかもひとつの難題に対して十の解決法を用意している。(難題がむしろ解決法を作り出したといえよう。)そしてそれはあまりに的確で、独特の音楽的解決法なので、難問を解くことは歌うことにほかならなかった。平凡さと純粋さに自発的な単純さを配合して輝きに変えた《舞曲》のあと、『弦楽五重奏曲変ホ長調』は持てるものをふんだんに注いだ豊かさの配合であるが、いささかも純粋さをそこねておらず、その絶妙の処理は注目に価しよう。
小鳥たちの比類ないコンサート、それは純粋な遊びとして、あらゆる音楽の表現手法を内包した「豊かさ」となるのだと語る。そしてそれは、
涙を流さず、いかなる影も、苦悩も、不安も、疑惑も、不如意もない。要するに人間的条件へいささかも隷属していない作品。――繰り返して言うが、血や肉や、心とはなんのかかわりもなく、それでいてどこをとりあげても無味乾燥でも冷淡でもなく、貧相でも、難解でもない作品、それが『弦楽五重奏曲変ホ長調』である。完全に光の織りもの、そうだ《モーツァルトの光》なのだ。
《モーツァルトの光》、モーツァルトの音楽を一言に凝縮したボショの著作名である。「光」、それは人間の肉体とその世界を超越する。ボショの言葉を引こう。「この〔モーツァルトの〕音楽は、私たちの精神を導いて、自分の力だけではとうてい達することのできないような高みに立たせるのである。それは、私たちに、ちょうど天上の彼方から射しこんでくる光のように働きかける」(大久保喬樹訳)。
……彼が用いた統一の方法は無限である。最も単純なのは八十五年にウィーンでたまたま彼がクレメンティの曲に見出したものである。彼は、変奏や転調や、リズムの崩れなどによって、絶えず変化する唯一の主題からひとつの曲を引き出すすべをクレメンティに学んだ。ご承知のとおりこの《大変奏》はのちにベートーヴェンの修辞学〔レトリック〕の中心となった。その後、ドビュッシーが音楽を解放するまで、ワーグナー、フランク、ダンディらがこれを使い尽くし、乱用した。そしてしまいには、単音旋律となった。だがそれば間違いなく統一を保証すると思ったら大きな誤りであろう。ぎりぎりまで追いつめると、統一どころか不調和を露呈する。主題は知られていないと、ある程度まで分解すれば見分けがたくなる。まさに取り出して咲かせようとしていた《特殊な存在》を失ってしまうからである。そうなると気転の問題であり、その存在を意識して捉えることが問題となるが――この点にこそモーツァルトの偉大な天才があるのだ。ひとつのあたえられた主題を展開するとき、彼は決して限度を超えず、詩人と雄弁家の境をわきまえていた。彼は主題の能力を心得ていたのである。主題の新鮮さを失わせたくなかったのだろう。
しかし、このこまやかな感覚が全く比類ない姿を示すのは、一見異なった二、三のあるいは四つの主題の間における、秘密の、有機的な、もう少し言葉を補えば霊的な関連を見通した場合であり、そして逆に非常に近く見えるいくつかの微妙に相違した主題の霊的な関連を予感した場合である。『弦楽五重奏曲変ホ長調』の統一は完全にこの神秘的関連しの上に成り立っている。なによりも作品の統一があるということは、彼がその神秘的関連性を見出したことであり、それをもとに作曲したことを物語っている。
最初の楽章の小鳥の主題は、各楽章の主題に変装し、その楽章を、さらには曲全体を密接に結びつけている。主題の新鮮さは失われることはない。それは有機的、霊的な、神秘的関連性によって比類のないものとなるのである。
……この傑作は、音楽では類例のない、透明な水晶の渦へと向かう。悦びそのものであり、ただ悦びだけである。純粋な技法と純粋な音の悦び。王国のない音楽の女王。彼女はなにも語らぬ以上、われわれにすべてを語っているのだ。彼女は芸術である以上、彼女は魂なのだ。それはなにを言わんとしているのだろうか? 彼女は存在し、瞑想している。彼女は瞑想しているものをそのままに映し出している。それこそ《完成美》であり、《統一美》なのだ。
完成美、統一美。この世の中に、このような言葉で語れるものがどれだけあるだろうか。また、この言葉を使って語ること、己の中にその自信と責任を持つ人が、今どれほどいるだろうか。そういうことを考えさせられる。
■ガードルストーン『モーツァルトとそのピアノ協奏曲』(1940)より
ガードルストーンはその著書『モーツァルトとそのピアノ協奏曲』を、この変ホ長調の弦楽五重奏曲で閉じる。
ただ、忘れていけないのは、ガードルストーンのピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595観である。晩年の清澄な諦念ばかりが喧伝されるこの曲であるが、彼は全く違った姿をそこに見ている。特に第1楽章の展開部で見せた主題の自在なはばたき、“労作”などという言葉をあざ笑うかのような「展開」である。その大きな、未知の可能性、その線上にこの五重奏曲を見ているのである。
ガードルストーンのピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
第1楽章
第3楽章~弦楽五重奏曲変ホ長調K.614
……最後の年1791年には、新たな春の萌出がモーツァルトの音楽の中に湧き上がるのを見るのである。それは来ることのない夏の先触れであった。…(略)
しかし春がその姿をあまねく現すのは変ホ長調の弦楽五重奏曲〔No.6 K.614〕においてなのである。
この五重奏曲はモーツァルトの最後の器楽作品であり、確かにこの曲はその頂点である。それは完全であり自己完結している。ここではある理想が達成されており、モーツァルトがより長い生を得たならばこの地点に留まり続けたであろうとは主張しないが、この曲には実り豊かな生活の最終章にふさわしい完璧さがあるのだ。
そしてアンリ・ゲオンと同じようにそれは音の知的遊戯であると捉え、人間の肉体、感情を超越していく。
それが与える最初の印象はひとつの知的遊戯(jeu d’esprit)である。ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲も同じ印象を与える。アンダンテを除けば、両者ともにその印象は超然性、すなわち情熱はもとより、ほんのわずかな情緒さえもそれに関わらないという事実に由来している。それはあたかも肉体から分離した霊魂が交流し合うようである。
最後の数年間の作品とこの五重奏曲との間にひとつの進化的関連性の存在を確かに感じる。確かにそのムードはそれらの作品群から生じたものだ。しかし、同じものではない。同じことを次のように言い表すことができるかもしれない。ヘ長調の四重奏曲〔K.590〕は五重奏曲が体現した理想を追い求めたが、それを表現することはできなかったと。
この五重奏曲の超越的な響き、それは同じ detached という言葉で表される世界でも、クラリネット協奏曲などとはまた違ったものを持っているのかも知れない。ガードルストーンは、それをあの、小鳥と戯れるアッシジのフランチェスコに託しているのである。
……その主題的素材の貧弱さは否めない。しかし、その精神的な内容の豊かさは、その素材的な貧弱さに反比例している。その飾り気がまったくない状態と情熱の欠如は、生気の枯渇でも知性が過剰なわけでもない。この曲をよく知るにつれて我々の第一印象は修正されるのだ。真の不屈の精神によって日々の不安を超越し、その悲しみを忘却するのではなく、自身と芸術の中にその慰謝を見出した強靭な個性の高みに向っての飛翔なのである。清澄、確かにこの五重奏曲はそうである。しかし、それは苦しみを経たが無感動で強い感情を抱くことができない受動的なものではない。精神の豊かな清澄さなのである。それはタミーノとパミーナが火と水の試練を経て入っていく聖域なのである。ボショーがそれを表現しているように、“聖フランシスコの恩寵”(une allégresse franciscaine)がそれを支配している。我々は“目に見えるものの向うに息づく心の歌を……アッシジのフランチェスコと語り合う小鳥のさえずりに満ちた森のざわめきのように、天上の光り輝くつぶやきを耳にするのだ”
最後に
すっかり長くなってしまったが、この曲に対する、冒頭のケラーの酷評、“ハイドンまみれ”の名曲解説書、それにケラーとは対極的なアンリ・ゲオンやガードルストーンの賛辞、これほど毀誉褒貶の幅の大きい曲はモーツァルトの作品でも珍しいように思われる。
ゲオンやガードルストーン、あるいはスタンダールやアドルフ・ボショ、さらにはヘルマン・ヘッセやカール・バルトといった人たち、このような人たちが聴き、書き表したモーツァルトの世界、もうこのようなモーツァルトを書く人はいなくなったのだろうか。ゲオンやガードルストーンでさえ、もう一世紀も前の人である。
書かなくなったのか、書けなくなったのか、あるいは書いてはいけなくなったのか、どうだろうか。