毎月のうた⋯⋯(補)その一
■ 三好達治『諷詠十二月』 毎月の扉句
『諷詠』が『十二月』をうたいながら、実際には多くの月で歳時的なものというよりも「詩話」的なものであるのは、「毎月のうた」でこれまで見てきた通りである。
煩雑になるため「毎月のうた」では触れなかったのだが、各月の扉裏にはその月の時節に合わせた漢詩句がエピグラフのように記されている。これは実は『和漢朗詠集』から、季節時節に合わせて抜き出されたものである。本文が歳時的なものではないとすると、エピグラフあるいは題辞的なものと呼ぶのも躊躇される。が、『諷詠十二月』という表題に最も符合するのはこの扉の句なのである。
『和漢朗詠集』は古今和歌集などとともに、日本の文化を規定する大きな役割を果たしたものではあるが、一般に、また私自身も諸々の日本古典の中で『朗詠集』はややその価値が劣るもの、と思い込んでいたのである。
そのような私の目を開いてくれたのが、大岡信の『詩人 菅原道真 うつしの美学』(岩波書店)であった。この「うつし」という概念こそが、日本の文化形成の大きな動因となったとする大岡の論は、『和漢朗詠集』の果たした役割についても次のように述べる。
われわれのご先祖は、中国の漢詩文を学習しつつ受け入れるに当ってさえ、ある作品全体を丸ごと引き受けるよりは、佳句の摘句という、言ってみればつまみ食いの方法的組織化によって、これを消化するやり方を好みました。『和漢朗詠集』をはじめとする何種類かの朗詠アンソロジーの成功は、漢詩文に本来そなわっている強固な散文的叙事性を、摘句という方法によっていったん断ち切り、かわりにそれらの断片を大和うたの本質をなす、情緒過多の抒情性の世界へ導入することによってもたらされたのです。
大岡信 『菅原道真 うつしの美学』 岩波書店
『和漢朗詠集』がこうして断片化した抒情的な漢詩の佳句を同一の題のもとに拉しきたった和歌と並置させる方法をとったのは、考えてみれば実に鮮やかな「移し」の方法の実践だったわけでした。
思えばアンソロジーというもの自体が、意図しようとしまいと潜在的に「うつし」の働きをしていくものなのかも知れない。『諷詠十二月』もそのような観点から見直すと、さらに新しい読み方ができそうである。
以下「毎月のうた」では省いた、各月の扉句をまとめて取り上げる。訓については、『諷詠』では三好自身による訓点が施されているが、ここでは川口久雄(『和漢朗詠集』講談社学術文庫)の訓を合わせて掲載した。両者の訓にはそのニュアンスに違いが見られ、それもひとつの面白さである。翻訳は川口久雄訳である。
一月 霰
麞牙米簸聲々脆 龍頷玉投顆々寒 菅 丞相 〔菅原道真〕
(三好訓) 麞牙の米を簸るがごとく聲々脆く
龍頷の玉を投ぐるがごとく顆々寒し
(川口訓) 麞牙米〔よね〕簸〔ひ〕て聲々脆し
龍頷、玉投げうって顆々寒し
(川口訳) 霰が屋根をうつ音が、かのくじかの牙にも比すべき精白の米粒を箕〔み〕でひるように、ぱらぱらと軽やかに聞えます。またそれは、龍のあぎとにあるといわれる千金の真珠を一粒一粒うちつけるように寒いひびきです。
二月 梅
漸薫綻蠟雪新封裏 偸綻春風未扇先 村上御製 〔村上天皇〕
(三好訓) 漸く薫ず 蠟雪新封裏
偸に綻ぶ 春風未だ扇がざる先
(川口訓) 漸くに薫ず 蠟雪の新たに封〔ほう〕ずる裏〔うち〕
偸かに綻ぶ 春風のいまだ扇がざる先
(川口訳) 寒梅は十二月の雪が新たに降り出した頃から、次第にかおりはじめ、春風がそよそよと吹きはじめるのも待たずに、人知れずひっそりと花をひらいたのです。
三月 早春
氣霽風梳新柳髪 氷消浪洗舊苔鬚 都 良香
(三好訓) 氣霽れて風は新柳の髪を梳〔くしけず〕る
氷消えて浪は舊苔の鬚を洗ふ
(川口訓) 気霽れては風新柳の髪を梳り
氷消えては浪旧苔の鬚を洗ふ
(川口訳) 天気はうららかに晴れ、春風が美人の髪の毛を梳るように、新芽を出した柳の枝をそよがせています。張りつめていた池の氷も消えて、うちよせる波が、水辺の苔をゆらめかしているのは、まるで古い鬚を洗っているようです。
四月 鶯
西樓月落花閒曲 中殿燈殘竹裏音 菅 三品 〔菅原文時〕
(三好訓) 西樓に月落ちて花の閒に曲あり
中殿に燈殘りて竹の裏に音あり
(川口訓) 西樓に月落ちて花の閒の曲
中殿に燈殘って竹の裏〔うら〕の音〔こえ〕
(川口訳) 内裏の西樓に月が傾く春の夜明け、うぐいすが花の間から曲を奏ではじめます。また清涼殿の燈がまだ消え残っている明け昏れの闇に、庭先の呉竹のしげみの中からうぐいすの声が聞こえてきます。
五月 (藤)
紫藤露底殘花色 翠竹煙中暮鳥聲 源 相規 〔すけのり〕
(三好訓) 紫藤の露は底に殘花の色あり
翠竹の煙の中に暮鳥の聲あり
(川口訓) 紫藤の露の底〔もと〕に殘んの花の色
翠竹の烟の中に暮〔ゆうべ〕の鳥の聲
(川口訳) 春は去ったが、露のおりているところに散り残っている紫の藤の花や、けぶって見える篁の奥から聞こえてくるうぐいすの声の中に、春の気分がわずかに残っています。
六月 (首夏)
苔生石面輕衣短 荷出池心小蓋疎 物部 安興
(三好訓) 苔は石面に生〔な〕つて輕衣短く
荷〔はす〕は池心より出て小蓋疎なり
(川口訓) 苔石面に生ひて軽衣短し
荷心池より出でて小蓋疎かなり
(川口訳) 石の面に苔が薄くむしているのは、すずしの軽い衣をまとうているようですが、まだ苔のたけは短く、池の中心より蓮の若葉が生いでているのは、小さい蓋〔きぬがさ〕をかざしたようですが、まだその数はごくまばらです。
七月 (蓮)
岸竹枝低應鳥宿 漂荷葉動是魚遊 紀 在昌
(三好訓) 岸竹の枝の低〔た〕るるは應に鳥の宿れるなるべく
漂荷の葉の動くは是れ魚の遊べるならむ
(川口訓) 岸竹の条〔えだ〕低れたり 鳥の宿〔い〕ぬるなるべし
漂荷葉動くはこれ魚の遊ぶならむ
(川口訳) 池のほとりの竹の枝がしない垂れています。きっと鳥がねぐらを結んでいるのでしょう。池の蓮の葉がゆれています。これは、水の中で魚が遊んでいるのでしょう。
八月 (蟬)
今年異例腸先斷 不是蟬悲客意悲 菅 〔菅原道真〕
(三好訓) 今年例〔つね〕に異なるりて腸先づ斷つ
是れ蟬の悲しきならず、客の意の悲しければなり
(川口訓) 今年は例よりも異にして腸〔はらわた〕先づ断ゆ
これ蟬の悲しぶのみにあらず、客の意〔こころ〕の悲しぶなり
(川口訳) 今年の蝉の声は、いつもより腸を断つように悲しく聞こえます。これは、蝉の声が悲しいのではなく、私の心が、都から遠く離れた辺鄙な国にいることを悲しんでいるいるからなのでしょう。
九月 (早秋)
炎景剰殘衣尚重 晩涼潜到簞先知 紀 納言 〔紀 長谷雄〕
(三好訓) 炎景剰〔あまつ〕さへ殘って衣は尚ほ重し
晩涼潜かに到つて簞〔てん〕先づ知る
(川口訓) 炎景剰さえ殘って衣はなほ重し
晩涼潜〔ひそや〕かに到つて簞〔たかむしろ〕先づ知る
(川口訳) 秋とはいえ、まだ日中は残暑の炎熱で、うすい夏衣さえ重く感じられます。けれども夕方には、涼しさが人知れずひそかにしのびよることを、竹むしろの表面が一番さきにひんやりとしてくること。
十月 (秋興)
物色自堪傷客意 宜將愁宇作秋心 野 相公 〔小野 篁〕
(三好訓) 物の色は自ら客の意を傷ましむるに堪へたり
宜なるかな愁の宇を秋の心に作すことは
(川口訓) 物の色は自ら客〔かく〕の意〔こころ〕を傷ましむるに堪えたり
宜〔むべ〕なり愁の宇をもて秋の心に作れること
(川口訳) 眼に入る世界のあらゆるものの色が、流されの身である私のこころを傷ましめます。秋の心でもって愁という字をくみたてているのは、なるほどもっともなことですよ。
十一月 (鴈 付 歸鴈)
雁飛碧落書靑紙 隼擊霜林破錦機 田 達香 〔島田忠臣〕
(三好訓) 雁は碧落に飛んで靑紙に書き
隼は霜林に撃って錦機を破る
(川口訓) 雁碧落に飛んで靑紙に書く
隼霜林に撃って錦機を破る
(川口訳) 雁が列をなして青空を飛んでゆくのは、ちょうど青い紙に文字を書き流したようです。隼が霜をかぶって真っ赤に紅葉した林の葉を散らして小鳥を撃ちとるさまは、錦編の機〔はた〕の織物を破るかっこうです。
十二月 (冬夜)
年光自向燈前盡 客思唯從枕上生 尊 敬 〔そんぎょう〕〔橘 左利〔ありつら〕〕
(三好訓) 年光は自ら燈前に向って盡き
客思は唯だ枕の上〔ほとり〕從〔よ〕り生〔な〕る
(川口訓) 年光は自ら燈〔ともしび〕の前に向うて尽きぬ
客の思〔おもひ〕はただ枕の上〔うえ〕より生る
(川口訳) 一年はまたたく間にすぎさり、今年もはや燈火とともに尽きようとしています。旅人の愁えは、横たわる枕のほとりより、なにやかやと湧き起こってきます。