清水婦久子著 『光源氏と夕顔―身分違いの恋―』 その1 新典社新書 2008年刊

 ■『夕顔』巻 冒頭の疑問

 『夕顔』こそが源氏物語が偉大な文学作品へと高まっていく契機となる巻だと感じているのだが、源氏物語を初めて読んで以来、『夕顔』に関してはよく理解できない点が二つあった。
 一つは光源氏が初めて夕顔邸を目にした場面である。

むつかしげなるおほぢのわまを見わたし給へるに、この家のかたはらに、檜垣というふ物あたらしうして、上は半蔀五間ほどあげわたして、簾などもいと白う涼しげなるに、をかしき額つきのすきかげあまた見えて、のぞく。立ちさまよふらむ下つ方思ひやるに、あながちに丈高きこゝちぞする。いかなる者のつどへるならむと、やう変はりて、おぼさる。

『源氏物語湖月抄』にのせる注では、

はじとみの上よりみゆる女を、たけ高きやうに思やせる。一勘云、はじとみの上よりのぞく女の床などをふまへずば、たけたかき事はあらじと思いやるなり。

講談社学術文庫 『源氏物語湖月抄』

 アーサー・ウェイリーの英訳になると、これはすごいことになる。

――while he was waiting began to examine the rather wretched-looking by-street. The house next door was fenced with a new paling, above which at one place were four or five panels of open trelliswork, screened by blinds which were very white and bare. Through chinks in these blinds a number of foreheads could be seen. They seemed to belong to a group of ladies who must be peeping with interest into the street below.

 At first he thought they had merely peeped out as they passed; but he soon realized that if they were standing on the floor they must be giants. No, evidently they had taken the trouble to climb onto some table or bed; which is surely rather odd!

 “Anthology of Japanese Literature”  YUGAO

 これはすごいことになったものである。侍女たちの品のないこと限りなしである。
 少々冷静に考えてみると、侍女たちが「のぞく」とされているのが、あげひろげられた半蔀の上である。しかし当時の一間は六尺五寸(約195センチ程度)であり、現代とそう大きく違うわけではない。その「半」すなわち約1メートル以上が簾である。侍女たちはよほど背が低かったのか。『湖月抄』の注のように半蔀の上などは、却って見ることは不可能である。それともよほど高い位置にあったというのだろうか。

 通説がどうも納得できない。別の解釈が可能なのではないかという気もするが、素人の私には手も出ない。しかしながら、二つ目の疑問に対しては、表題の著作が衝撃的なほど見事に解決してくれた。これは『夕顔』の巻全体にわたる従来の通説の誤りを全面的に、解釈しなおすものである。

 その二つ目の疑問を抱いたのは、源氏物語について語られた随筆の類を読むようになって、夕顔という女性がどのように受け止められているかを知った時の驚きからである。標題の著作者清水婦久子氏が指摘しているように、これには、口語全訳者でもある円地文子の次の評言が大きな影響を与えたとのことである。夕顔と光源氏の最後の応答歌についての評である。

――夕顔自身も源氏をそれと確認するのは、某の院に来た時、そこの留守居役が源氏対してとる丁重な礼儀と源氏自体が自ら覆面をとって、

 「夕霧に紐とく花は玉鉾の
     たよりに見えし縁こそありけれ

 露の光やいかに」

のたまへば〔夕〕尻目にみおこせて

  光ありと見し夕顔のうは露は
     たそがれ時のそら目なりけり」

という応答の件〔くだり〕によるのであるが、この夕顔の歌はひとえになよなよとはかなげで男に頼りきっている女のそれとしては、ちょっと曲者という感じを受ける。
 つまり「光源氏と呼ばれる私はどんなものでしょう」とよびかけた男に対して「光源氏なんておっしゃって、すばらしく見えたのは夕ぐれ時のそら目だったのですわ」と軽くいなしている形である。
 この余裕あるやりとりに、私たちは夕顔の中の無意識な娼婦性を感じられないだろうか。

新潮文庫『源氏物語私論』 「夕顔と遊女性」

 もう一人の源氏物語全訳者の瀬戸内寂聴となると、もっとすごいことになる。

(最後の応答歌)この時の夕顔の返歌が意表をついていて、読者はまたここでどきっとさせられるのである。
 ちらっと流し目で男を見た女は、「前にすてきに見えたのは夕暮れのせいだったのかしら。今近くで見ると大したことないわ」という意味の歌をかすかな声でつぶやくのです。なかなか味な答えをするじゃないかと、源氏も面白く感じます。ここで夕顔が決して、ただ無邪気で可愛らしいだけの女でないことを知らされます。過去のある女は、それだけ心も練られていたのです。
 夕顔に円地文子さんは娼婦性があるとおっしゃいましたが、この夕顔の宿そのものが、娼婦の宿のような気がします。行きずりの男に歌を女の方から詠みかけるのも女童に素早く扇を持たせてよこすのも、すでに誘いかけととれなくもありません。

文春文庫 『源氏物語の女君たち』

と、「尻目」は男を誘う流し目に、夕顔邸は娼婦の屋形にされてしまう。下級の貴族とはいえ、いやしくも天皇の皇子の乳母宅の隣家である。とんでもない話だ。
 『夕顔』の巻を読んで受ける夕顔という女性の大体の性格とは全く異質である。何かがおかしいと感じたものである。

 この夕顔という女性に対する見方の違和感を、きっぱりと見事に解決してくれたのが、表題の清水婦久子著『光源氏と夕顔―身分違いの恋―』である。新書という小冊子ながら、通説の誤りを手際よく切り捨てていく。著者の実証精神は衝撃的である。

 次稿では、この書の「すごさ」を紹介したい。

(その2に続く)