ケンベンのこと

 ケンベンが嫌いである。おそらく好きな人は誰もいないだろう。

 小学生だった昭和30年代、まだ戦後間もない頃で寄生虫罹患者もまだ多かったためだろうが、我々小学生も時々ケンベンを提出しなければならなかった。当時は現在のようなプラスチック容器ではなく、家にあるマッチ箱にぶつを直接入れ、名前を書いたラベルを貼って提出するのである。提出日には教室も独特の香りが立ち込めていたものだ。思い出しただけでも気分が悪くなる。プラスチックの氾濫に危機感はあるが、ケンベン容器だけは廃止していただきたくないものだ。リサイクルも勘弁してほしい。

 今のケンベンは二、三回分は取らなければいけないのだが、いざとなると、緊張して出なくなるのだ。偽って同日のものを出したこが何度かある。

 私のいた会社では誕生月検診というのがあり、当然のごとくケンベンもメニューに入っていた。私の誕生月は7月である。ケンベン説明書にぬけぬけと書いてあるのがしゃくに触る。「冷暗所に保管してください。」何だと、この季節に冷暗所って、冷蔵庫以外にないじゃないか。嫌いなケンベンがますます嫌いになる。

 会社の同期、サダユキ氏も大のケンベン嫌いであった。あまりの嫌さに彼は、飼っていたわんちゃんのうんちをケンベンで提出した。もちろんすぐにバレた。顕微鏡を覗いた検査技師はきっと仰天したことだろう。大𠮟責を受けたのはもちろんである。

 現在のケンベンは大腸癌などの発見が主となっていて、寄生虫はもう下火になったそうである。ところが、である。我が家では虫の方に一度やられてしまった。近所のママ友たちで共同購入していた有機栽培どろ付き野菜が原因と言われていたが、小学校のかなりの生徒がやられたそうだ。ちょうど筑波の学園都市でもしらみや回虫の繁殖が話題になっていた時期である。学校から家族全員分、500円玉ほどの大きさの虫下しが支給された。私はずるをして飲まなかったが、その後のケンベンでひっかかったことはない。

 大嫌いではあるが、たった一度だけ、ケンベンに感謝したことがある。
 ある日の帰宅電車、混雑を避けて各駅停車に乗った。途中で急行通過待ちである。立ち疲れ、車両から出て目の前のホームのベンチで休んだ途端、寝込んでしまった。ハッと気づくと電車は網棚の私のカバンとともに動き出している。あわてて駅員さんに頼み込み、ずっと先の駅で受け取れることになった。
「すみません、カバンの件で連絡してもらったSです。取りに来ました。」
「これですか。中に何か本人を証明できるものや名前が書いてあるものが入っていますか。」
「うーん、何かあったかしら。」
考え込んでいると、使命感に燃えた駅員さんは厳しいことを言う。
「何もないと、別の手続きが必要になります。」
あっ、そうだ!
「ケ、ケ、ケンベンが入っています、名前が書いてある。今日出し忘れたのが。」
使命感の駅員さんは、一言も言わず、カバンの中身も調べないまま私のカバンを渡してくれた。

 ありがとう、ケンベン。何があるかわからない、やはりケンベンはちゃんとしなければいけない。

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