ゆで卵が食いたい

 もう30年以上前になるだろうか、初めてアメリカに出張することになった。フロリダからワシントン、ニューヨーク、そしてボストンまで約10日の予定である。

 出発までひと月ほどある。これだけあれば英語などどうにでもなる、と思いつつ何もせず1週間前になった。1週間あれば、と考えながらもやはり怠慢である。いよいよ当日、何年も英語をやったのだからどうにかなる、との思いをいだいて、アメリカに上陸した。
 どうにもならない、まったく英語がわからない。  

 だが、現地ではおばさんの通訳がついてくれている。何も心配はない。

 これが甘かった。

 最初の夕食のレストランのこと、メニューを見ると、これが全く理解不能である。フランス語らしきものさえ入っている。どんな食い物か、まったくわからない。おばさん通訳に哀願の目を向けると、目をそらす。おかしい。出張チームの幹事役のアゼクンが教えてくれる。食事は一緒にするが、食事中には通訳を行わない契約になってます、とのこと。チームメンバーも自分の注文で必死である。一人絶望的な気持ちになる。

 しかしどうにかなるものである。さらに数回の経験を経て、その場を切り抜ける要領が分かってきた。まずメニューをじっと見る。最初に、〇〇or〇〇or〇〇と選択肢がorで繋がっているものを除外する。これを頼むとどれがいいか聞いきて面倒が起こる。次にこれが一番やっかいなことになるのだが、prepared for your styleと書かれているものには目もくれてはいけない。my styleなど語れる英語力もないし、そもそもそんな食い物のスタイルなど持っていない。これでメインの料理のうち、たいてい2つ3つは残る。それを番号で頼むのである。料理が何であるかなどは二の次、問題外である。

 この要領を得て以降、旅は快適であった。

 いよいよ日本に戻る最後の日、ニューヨークの空港のレストランで朝食をとることになった。突然目に飛び込んできたeggの文字、無性にゆで卵が食べたくて仕方なくなった。まるで脅迫するようにゆで卵が迫りくる。しかし残念なことにprepared for your styleとあるではないか。ますます脅迫は強くなってくる。決心した。

 Boiled egg, please. これでいいだろう。………残念ながらこれでも甘かった、敵はさらにたたみかける。How many minutes do you want to boil? 卵を何分茹でるかなんて、知るものか。

 しかし10日間の米国生活の成果だろうか、Hard-boiled egg, please. すばらしい答えではないか、我ながらほれぼれする。ウェイターのお兄さんもOK, OK!などと言いながら戻って行った。

 随分時間がかかる。固ゆでになり過ぎないか心配していると、来た来た! 念願のゆで卵である。ところが……。

 Three sunny-side-up eggs! Enjoy! にこにこしている、何だこいつは。黄色い三つ目がじっとこちらを見つめている。文句を言う英語力も気力もない。

 コチコチのまずい目玉焼きを3つも食う羽目になってしまった。あれは私の英語がまずかったのか、ウェイターのお兄さんの耳が悪かったのか、今だにはっきりしない。

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