杜甫の詩 聨拳って何?

 岩波新書の吉川幸次郎・三好達治共著『新唐詩選』、その中に杜甫の次の詩がある。杜甫詩集や名詩選がめったに取り上げない作である。横書きをお許しいただきたい。

  江月去人只數尺     江月は人を去ること只数尺
  風燈照夜欲三更     風灯は夜を照らして三更ならんと欲す
  沙頭宿鷺聯拳靜     沙の頭に宿る鷺は聯拳として静かに
  船尾跳魚溌剌鳴     船の尾に跳る魚は溌剌として鳴る

 吉川先生のは解説のポイントは次の通りである。

  人の頭のうえただ数尺のところに月があるといえば、平野の中の舟つき場の景である。
  風灯とはマストの上にかかげたともしびであると、注家はいう。
  岸べは夜目にも白い沙はま、そこでは鷺が足をつっ立てたまま、すこし体をくねらせてねむっている。
  船のともの方では、静寂をやぶって、ぴちぴちと音をたててはねる魚。

 もう50年以上前のことだが、私の父が、
「おい、この詩を読んでみろ、聨拳ってあるだろう。これ何か変じゃないか。」
吉川先生の解釈は後代の元曲での使用例をあげて、水鳥が首をくねらせている様子とされ、拳を並べたように水鳥が並んでいる情景という解釈もある旨記されていた。
 がさごそと何かを探していた父が、
「やっと見つけた。この辞書だけに出ている。」と言って、何冊かの漢和辞典の中から、明治時代のものとさえ見えるぼろぼろの一冊を取り出してきた。そこには

  聨拳 ギャロップ、足掻き

とあったのだ。

 さっそく父が吉川先生に質問の手紙を出し、お返事をいただいたのだがそこには毛筆で、
「そのような辞書は存じません。何の権威もないものです。」
とお叱りを受けてしまった。

 吉川先生も記されているように、聨拳の使用例が元代の一例しかないとすると、杜甫の詩の中にしか、この言葉で杜甫が何を指しているのかを判断する手掛かりはないだろう。その解釈の自由があるはずである。素人考えであるが、私の考えを整理してみたい。

 まず考えなければいけないのは詩中の「鷺」である。この「鷺」は現在の我々が知っている日本の鷺だろうか。環境省が1994年に行った「鳥類の集団繁殖地及び集団ねぐら」の調査報告書には次のように記されている。

サギ類が集団繁殖地やねぐらとして,どのような環境を選択しているのかを,関東と関西で比較した。サギ類が営巣した林は,竹林,落葉広葉樹,スギ・ヒノキ林,マツ林などさまざまな種類が確認されたが,関東と関西ではやや異なった傾向がみられた。関東においては竹林で繁殖するものがもっとも多かったが,関西では湿地以外に成立した広葉樹が多く,竹林は少なかった。
環境省 第4回基礎調査動植物分布調査報告書(1994)

 すなわち杜甫の詩の「鷺」は、我々が考える「鷺」ではないのだ。鷺は汀線にねぐらをつくることはない。それは獣や人間を恐れ汀に集団で塒をつくる別の水鳥なのである。それらの水鳥が、一本足だったり、首を曲げて羽に嘴を突っ込んで休むということはない。杜甫の「鷺」が実際にどの水鳥を指していたかは、確かめようがない。

 次に杜甫の乗っている船の位置を考えてみたい。沙頭とあるように水鳥のいるのは砂浜、浜辺であり、砂浜であれば、遠浅ほどではないとしても海は浅く、船は浜辺からは離れて停泊せざるを得ないだろう。したがって、杜甫の船と水鳥の集団のいる汀の間には、相当の距離があるはずである。杜甫の船が近ければ、そんなところに塒をつくるはずがない。たとえ月があり灯があったとしても、その距離で水鳥が首をひねらせているのが判別できるだろうか。

 夕刻から水鳥はねぐらを作るため、砂の中にいるフナムシなどを足掻きで掻き飛ばす習性があるという話を聞いたことがある。水鳥の群れが一斉にこれをやるのだ。そしてそれは次第に静まっていくことだろう。「聨拳」はこの水鳥の群れが眠りにつく前の、ねぐら作りの足掻きと鳴き声によるざわめきの情景のように思えるのである。そして三更に近い真夜中の今はすっかり静まっているのだ。杜甫の耳にはまだそのざわめきの余波が響いているのかもしれない。
「聨拳静」は「聨拳として静かに」とされているが、これは水鳥の群れの足掻きが静まった後の「聨拳静まり」なのではないだろうか。

 それでは第四聯、「溌剌飛」はどうだろうか。
 新書では「溌剌として飛ぶ」とされている。主語は魚である。そうすると杜甫は魚の姿を見ていることになる。しかし、杜甫は船首にいて水鳥のいる浜辺の方を見ており、船尾の跳躍する魚を見ることはできないはずである。杜甫は、鷺の足掻きが終わり、その静寂に浸っているときに、跳躍する魚の「音」が響くのをを聴いたのである。絶対に魚は見ていない、月はあり灯もあったとしても見ることはほぼ不可能だろう。この「溌剌」は水しぶき、あるいは水しぶきの音と考えた方がいいのではないだろうか。「溌」自体、水しぶきの意がある。その音に気付き振り返るが、魚の姿は見えず、水しぶきだけが上がっている。「溌剌飛ぶ」である。あるいは音だけを聞いたのかも知れない。
 杜甫の耳に水鳥のざわめきがかすかに残る中、魚の跳ねる鋭い音がそれを破るのだ。

 第三、第四聯は「聨拳静まり」と「溌剌飛ぶ」という形式上の対句だと思う。数も多数対単数の対、また音も対になっている。水鳥の群落が立てる足掻きと鳴き声たてるのざわめき音、それに対して水鳥のピチッという鋭い音、この音の特性の対立も対であると考えたい。「聨拳」も「溌剌」も新書の言うようなオノマトペだろうか、ここでは名詞ではないかと考えた。せいぜい「聨拳」も「溌剌」もその音としてオノマトペということができる単語なのかどうか、素人の私にはわからない。

 最後に疑問であるが、「風灯」がよくわからない。水鳥が近くにいるような船着き場はかなり小さなものだろう。この時代、旅船が停泊する際、よほど大きな波止場以外、海賊を恐れて灯を消していたはずである。杜甫の船はどうだったのだろうか、よくわからない。もっと調べてみなければならない。

 最近講談社学術文庫で大部の『杜甫全詩集』が出版されたが、そこでは「聨拳」を水鳥が並んでねているいる情景としている。水鳥と魚の音の対比関係はなくなる。少々気味の悪い情景ではあるが、「首をひねってねている」よりましである。詩の解釈は詩的に美しいほうがいいように思う。

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