長野まゆみの『夏帽子』

 食べられる石「水晶石榴」、吾亦紅に人魚の鱗を差し込んで火をつければ赤くともる提灯、海水を汲む北斗七星、北極圏で採取した氷河のかけらの中に顕微鏡で観察できる微生物氷河星〔ポーラースター〕、白檜曾に吊るして晒す瑠璃色の電球、お客をもてなすための兎玉子、「《猫のひげ》に注意」の立札、鳴子百合の花の中で育つ狐火虫、年に一度洞窟の底の湖に集まる月天子……等々。

 これは一体何なんだ、と思われるだろう。長野まゆみの『夏帽子』に出てくる不思議なものたちである。
 私は『少年アリス』以来、この人の書くものが好きでよく読んでいる。アリス以来のファンタジー系とちょっぴり怪談めいたものが特に好きである。そのファンタジー系の頂点にあるのが、この『夏帽子』だと思っている。

 主人公の一人紺野先生は、病気の教師などの代理で数か月臨時で理科を教えるために、山間や海辺の学校に赴任する。いろいろな子供たちと出会うのだが、その中に一人山の少年に出会う。もう一人の主人公である。
 冒頭の不思議なものは、水晶石榴や吾亦紅提灯の人魚の鱗、氷河星などは紺野先生のポケットから取り出されたもの、瑠璃色の電球、兎玉子、猫のひげなどは、この山の少年が紺野先生に進呈したものである。この山の少年は誰だって? それは読んでのお楽しみである。「ねたばれ」になっては申し訳ない。

 このような作品を何と呼んだらいいのだろうか。小説?まともな話の筋はない。先ほどこう呼んだのだが、フ ァンタジー? いや、不思議なものがあり不思議な登場者はいるが、変な小説よりよほどリアリティがある。いろいろ考えているうちに、自分の心の底にうごめいていたある思いが形をとってきた。そう、これは小さい子供のころ寝るまえに布団の中で父親が語ってくれた《お話し》、その大人版なのである。そのように感じさせる一種の懐かしさがここにはある。長野ワールドの大爆発であるが、それは非常に静かである。『鉱石倶楽部』を併せ読めば、もう少しは爆炎があがること間違いない。

 年に一度は読みたくなる作品がある。『坊ちゃん』、『青べか物語』それにこの『夏帽子』である。
 たまたま三作品とも「先生」ものである。作者の実体験があったのかも知れないが、先生というのは作者みずからの姿を投影しやすいものなのだろうか? 坊ちゃん先生は漱石の自画像だろう、青べかの先生は山本周五郎その人にほかならない。夏帽子の紺野先生は長野まゆみの分身に違いない。そしてこれらの作品には嘘がない。
 これらの作品を繰り返し読みたくなるのは、そのためだろうと思う。

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