私の好きなシューベルト3曲 その1
1.エルナ・ベルガーとゴイザーの『岩の上の羊飼いD.965』
モーツァルト好きの人たちでの飲み会のことだった。その日の酒の肴は、よくあることだが「孤島の1冊」ならぬ「孤島の1曲を選べ」というお題である。「電気のない孤島でどうやって聴く?」という意見も出たが、それはご愛敬。それぞれの孤島自慢が始まる。遊びは遊びとして楽しめばよかったのだが、つい本音のことを言ってしまった。「私はモーツァルトではなく、シューベルトですね。」これには非難ごうごう、まるで裏切り者、敵国のスパイ扱いである、当然これもお遊びなのだが……。
この時に私が挙げたのが『岩の上の羊飼い』である。誰の演奏でもいいというのではなく、エルナ・ベルガーが歌い、ハインリッヒ・ゴイザーがクラリネットのオブリガート、それにシェルツァーのピアノによる古い録音である。
今でも孤島を問われれれば、この曲、この演奏を挙げるだろうと思う。
もう随分昔のことになってしまったが、東芝EMIからSP時代の名演奏がLP復刻されていた。エドウィン・フィッシャーのバッハ、コルトーのショパン、カザルスのチェロなどである。1980年ころだっただろうか、これらのSP盤の新たに見つかった金属原盤から復刻されたLP盤が発売されるようになった。コルトーのショパンなどは、それまでのSP板起こしのものとはまるで異なった演奏に聴こえたものだ。
GR盤解説書によれば、エルナ・ベルガーの『岩の上の羊飼い』も、SP起こしらしいが、この新しい金属原盤起こしのものだろうか。1954年録音とのことなので、すでにテープ録音だったのかも知れない。カルル・フォルスター指揮ベルリン・フィルとのモーツァルトの宗教曲集の最後に付録のように入っていたもので、モーツァルトを目当てに買ったのだが、この『岩の上の羊飼い』に、すっかりまいってしまった。ベルガーの歌声に加え、後にモーツァルトのクラリネット五重奏曲やフリッチャイとのクラリネット協奏曲ですばらしい演奏を聴かせてくれるあのゴイザーの独特な音色、また演奏のみならず、SP 、あるいはモノラル初期の録音の音というものの優秀さにも驚かされてしまった。LP時代になっての録音、マリア・シュターダー、リタ・シュトライヒ(クラリネットはゴイザー)やエリー・アメリンク、最近のものではバーバラ・ボニーのものなど、それぞれに優れているとは思うが、やはり私の孤島にはベルガー、ゴイザーである。
ピアノがト短調の和音を連打し、3連符和音へと急き立てられると、クラリネットがただひとり非常に長いフェルマータで入ってくる。どこまでも続くかと思っていると、最後の一拍で変ロ長調へと転じる。クラリネットの単音での魔法のようなエンハーモニック転調である。主題へと入ると、再び短調へ、また長調へとエンハーモニックに転調し続ける。短調のような長調、長調のような短調、「あわい」の調である。ゴイザーのクラリネットはこの微妙なあわいを見事に吹き分けている。
ベルガーが入ってくる。何と清楚で愛らしい羊飼いだろうか。彼(女)は歌う。
Wenn auf dem höchsten Fels ich steh’,
In’s tiefe Tal hernieder seh’,
Und singe.
Fern aus dem tiefen dunkeln Tal
Schwingt sich empor der Widerhall
Der Klüfte.
私が高い岩山の上に立ち
深い谷間をのぞんで、
ひとり、歌をうたうと、
はるかに暗い谷の底から、
その声がもどってくる、
こだまの声が。
一節ごとにクラリネットが《こだま》を返す。羊飼いと《こだま》は、共犯者のように手をとりあって「あわい」のエンハーモニック転調を繰り返す。前半のアンダンティーノだけで30回近い転調である。
一度だけ、思わず羊飼いの悲しみがあふれ出るが、それは諦念だろうか。《こだま》は消えてしまう。
In tiefem Gram verzehr ich mich,
Mir ist die Freude hin,
Auf Erden mir die Hoffnung wich,
Ich hier so einsam bin.
So sehnend klang im Wald das Lied,
So sehnend klang es durch die Nacht,
Die Herzen es zum Himmel zieht
Mit wunderbarer Macht.
いと深い悲しみにとざされ、
よろこびも消え去って、
この世になんの希望もなく、
私はここで孤独のままだ。
こうして私の歌は、森に、
暗い夜にこだまのみして、
こころだけが、不思議な力で、
大空に飛翔する。
再び《こだま》は戻ってくるが、それは突然アレグレットに転じる。もう転調で揺れ動くことはほとんどない。クラリネットはもう《こだま》ではない。ともに歌い旅に出る友、よろこびの春である。
Der Frühling will kommen,
Der Frühling,meine Freud’,
Nun mach’ ich mich fertig
Zum Wandern bereit.
春よ来たれ、
私のよろこびの春よ、
さあ私といっしょに
旅に出よう。
一瞬陰りを見せながらも、喜びへと高揚して曲を閉じる。まるでロンドだ。
この曲がシューベルトの最後の作品である。
この歌詞はミューラーともう一人他の詩人のものを混ぜ合わせたものとのことである。上の訳詩は、ベルガー盤の解説書より小林利之氏のものであるが、より厳密な訳は「オペラ対訳プロジェクト」の方が公開されている、リタ・シュトライヒのYouTube音声動画を参照されたい。(https://www.youtube.com/watch?v=rRsA2_I461A)
この演奏もようやく何種類かのCDで発売されるようになってきたようだ。私の購入したのはTESTAMENT盤である。評価も高まってきたのだろうか、『岩の上の羊飼い』が冒頭に収録されている。シューベルトの歌曲やバッハのカンタータ(抜粋)などが追加されているのもうれしい。また、モーツァルトもK.339のヴェスペレ全曲なども追加されているが、正直なところモーツァルトの宗教曲については、現在もっといい演奏がいくらでもあると言えるだろう。