私の好きなシューベルト3曲 その2

2.ホロビッツの弾く『即興曲 D899 作品90の3』

 高校時代のある日、音楽室からとてもきれいなピアノの音楽が流れてきた。きらきらと光る星が滝のように繰り返し流れ落ちていた。誰が弾いているのだろう、覗いてみたい気持ちもあったがイメージが壊れるのを恐れてやめた。曲目不明のままであった。
 その後、レコードを買うようになって手に入れた、シューベルトの即興曲集。針を落とした途端にイングリット・ヘブラーの弾く清楚なピアノに引きずり込まれたが、表面の最後の作品90の4。ああ、あの曲だ! 音楽室から流れてきた、あの曲だった。即興曲集は当時何種類かあり、高い評価を得ていたリリー・クラウスのものなども手に入れて随分聴きまくったものだ。

 聴き続けているうちに、私のお気に入りは、作品90の3に移っていった。4番目のきらびやかさではなく、一聴地味に聴こえるものの、実に細かな繊細な部分にまでよく作り込まれた曲である。ふと気づいたのだが、この作品90の3は、ギターで演奏されるアルペジオの曲、例えばあの有名な『禁じられた遊び』の主題曲と、複雑度の違いはあれ同じ構造なのである。最高音で旋律、それと最低音で中音部のアルペジオをはさみ込んでいる。そういえば、シューベルトは歌曲の作曲などにギターを使うこともあったという話を聞いたことがある。ギター奏法がこの曲の発想に影響を与えている可能性もあると思う。
 しかしこのような作りの曲をピアノで弾くというのは、非常に大変なことである。右手の薬指、小指は高音部の旋律にはりつきであり、残りの指でアルペジオを奏さねばならない。下手にペダルを使うと音の粒立ちが台無しになってしまうのだ。左手はただひたすら低音を保持するだけである。

 簡単にこの曲の構造を見てみる。下図は基本構造と、コデッタを抜き出してみたものだ。
 大きくは3部形式、第1部Aと第2部Bともに、コデッタを持つ主部が2回反復される。AでのコデッタC1、C1’は4音が2段に下降するが、2回目は下降4音の第2,第4音が半音上げられており、繊細、微妙な揺らめきである。BでのC2反復でのC2’は3度上の調、変ロ長調に移されるが、これが絶妙な美しさを醸し出す。基調、変ト長調の同主短調の平行長調という、ぎりぎり近親調かほぼ遠隔調なのだが、何の準備もなくほぼ違和感なく瞬時に転ずる。第3部AではA’は省略されC1がC1’は連続し、そのままコーダに入っていく。コーダでは、また異なった4音モチーフC3が4回出現するが、最後の1回C3-4は、3度高く奏され、その結果第3音が半音高くなるのである。
 このように、この曲は毎回微妙に変形し続ける各部のコデッタこそが主役なのである。特に第2部Bでの主部は、ほとんど経過句のようにしか響かない。

即興曲作品90-3収録の
The Sound of Horowitz

 ホロビッツの弾くこの作品90の3を入手したのはいつ頃だったろうか。CBS Sonyの再発盤LPである。ほんとうの驚いた。この感動は50年以上たった今でも少しも薄れてはいない。これを超える演奏は、おそらく未来永劫、もうでてこないのではないかと思ったほどである。今でもそう思っている。
 実はこの時不思議な体験をした。当時のCBS SonyのLPはスクラッチ・ノイズやテープ・ヒスでS/N比があまり良くなく、C2とC2’の高音、特にC2’が聴こえないのだ。耳の中で旋律は完全に鳴っているいるのに、実際の音が聴こえない。ホロビッツは本当に弾いているのか、私の貧しいステレオ・セットではとうとう確かめることができなかった。

デジタル・リマスター再発CD

 後年このレコードのCD再発売盤を見つけた。Odysseyの廉価CDである。デジタル・リマスターとのことで、C2を確認できるに違いない。恐るおそる聴いてみたが、さすがリマスター、しっかりとホロビッツの繊細極まりない音をりっぱに拾っていた。改めてこの演奏を聴きなおし、ホロビッツの最盛期の「すごさ」を実感した。C1、C1’の軽妙さ、C2、C2’の美妙さ、特に高く転調したC2’の美しさは言語を絶すると言えるほどだ。これは「夢」の世界である。これを聴くたびに「夢は そのさきには もうゆかない」という詩の一節を思い浮かべてしまう。こういう世界は、ショパンなどには表現できない世界である。人間の「優しさ」の質が違うのだと感じている。

Horowitz Plays Schubert’s Impromutu Op.90-3

 ホロビッツの晩年にウィーンでこの曲を演奏している映像をYouTubeで観ることができた。(https://www.youtube.com/watch?v=FxhbAGwEYGQ&list=RDFxhbAGwEYGQ&start_radio
「ひびの入った骨董」ほどではないものの、63年の録音に比べると、ダイナミズムの幅も狭く、テンポも遅い。しかしやはりホロビッツはホロビッツである。他のピアニストの演奏で聴ける音楽ではない。映像では、彼の手に驚いた。指をまっすぐ伸ばし切った状態で弾いているのだ。これでよくあの強弱や絶妙さが表現できるものだ。ホロビッツという人は本当に不思議なピアニストである。

 63年の録音には、スカルラッティやスクリャービンの優れた演奏が含まれている。ホロビッツのベストの演奏に入るものだと思っている。

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