小林秀雄の『モオツァルト』~不協和音四重奏曲(2)

 音楽を論ずることと、音楽を語ることは全く別のこと別種の仕事である。前者は頭、後者は耳の問題だ。

創元に掲載された『モオツァルト』扉
挿絵は何も関係ない梅原龍三郎のデッサン

 一体小林秀雄は『モオツァルト』で本当にその音楽について語っていたかどうか、疑問に感じた人も多いことだろう。取り上げられた曲は、
  交響曲第40番ト短調 K.550 第4楽章
  弦楽五重奏曲第4番ト短調 K.516 第1楽章
  交響曲第39番変ホ長調 K.543 第4楽章
その後に
  交響曲第41番ハ長調 K.551 『ジュビター』 第4楽章
そしてのその補足のように語られるのが
  弦楽四重奏曲第19番ハ長調 K.465 第2楽章
である。

 第39番までの曲、その音楽についての具体的な記述はほとんど、というよりも全くない。第41番のジュピター音型の運動についてその音楽について語ろうとする。しかし語りきれず、つい評論家がその頭をもたげてしまうようだ。その部分を引こう。

 第一ヴァイオリンのピアノで始まるこの甘美な同じ旋律が、やがて全楽器の嵐のなかでどの様な厳しい表情をとるか。
 主題が直接に予覚させる自らなる音の発展の他、一切の音を無用な附加物と断じて誤らぬ事。而も、主題の生まれたばかりの不安定な水々しい命が、和声の組織のなかで転調しつつ、その固有な時間、固有の持続を保存していく事。これにはどれほどの意志の緊張を必要としたか。併し、そう考える前に、そういう僕等の考え方について反省してみる方がよくはないか。言い度い事しか言わない為に、意志の緊張を必要とするとは、どういう事なのか。僕等が落ち込んだ奇妙な地獄ではあるまいか。要するに何が本当に言いたい事なのか僕等にはもうよく判らなくなって来ているのではあるまいか。

 これはまさに自作自演型の小林秀雄流レトリックである。「何が本当に言いたい事なのか僕等にはもうよくわからなくなって来ている。」すなわち小林秀雄が生涯かけて筆に託した近代批判、「花の美しさ」批判に落とし込むのである。だがこれは美しいモーツァルトの音楽には何の関係もない。

 ところがここで著者の語り口は突然アッチェレランドする。そして「例えば」という形で不協和音四重奏のアンダンテについて語り始めるのである。

例えば、僕はハ長調クワルテット(K.465)の第二楽章を聞いていて、モオツァルトの持っていた表現せんとする意志の驚くべき純粋さが現れて来る様を、一種の困惑を覚えながら眺めるのである。若し、これが真実な人間のカンタアビレなら、もうこの先何処に行く処があるだろうか。例えばチャイコフスキイのカンタアビレまで堕落する必要が何処にあったのだろうか。明澄な意志と敬虔な愛情とのユニッゾン、極度の注意力が、果しない優しさに溶けて流れる。この手法の簡潔さの限度に現れる表情の豊かさを辿る為には、耳を持っているだけでは足りぬ。これは殆ど祈りであるが、もし明らかな良心を持って、千万無量の想いを託するとするなら、恐らくこんな音楽しかあるまい、僕はそんな事を思う。

 小林秀雄がこの本で直接モーツァルトの音楽を語るのは、この一節が最初にして最後である。これより前には文芸評論家の頭が音楽を語っていたのだが、ここで、というよりも「ハ長調クワルテット」の話になって初めて音楽愛聴家の耳、心が語り始めるのだ。
「表現せんとする意志の驚くべき純粋さ」「真実な人間のカンタアビレ」「明澄な意志と敬虔な愛情とのユニッゾン、極度の注意力」「手法の簡潔さの限度に現れる表情の豊かさ」、モーツァルトに限らず、これほどの賛辞を一つの曲に対してささげた評者を他に知らない。

 小林秀雄にこれほどの想いを抱かせた弦楽四重奏曲第19番ハ長調K.465第2楽章アンダンテとは、一体何なのだろうか。著者は「耳を持っているだけでは足りず」、「これは殆ど祈り」であり、「明らかな良心を持って千万無量の想いを託す」にはこんな音楽しかないと言う。これはモーツァルトのこの音楽にどのように接することだろうか?「祈り」? 祈る心を持ってモーツァルトのこの音楽に己を没入させよ、ということだろうか。そうであれば無心になるということだろうか。ここまで来るともう書いた本人にしかわからない世界である。分かろうとしてはいけない。モーツァルトの音楽はそれほど親切ではないと思う。

 この部分が小林秀雄がやっと心を打ち明けた、『モオツァルト』の頂点であり、その後でまた評論家の頭に戻ってしまう。それらはほとんど付け足しにすぎない。随分うるさく言われる著者の歌劇に対する言及などこの本の本質的な話ではない。

 ところで「堕落」と評されたチャイコフスキーもいい迷惑だろうが、アンダンテ・カンタービレを聴くと、背筋が寒くなるのも確かである。先日ジャズの本を読んでいたら、ダメジャズ曲をこんな言葉で評していた。“Sweet-drenched”、堕落というのもここあたりだろうか。寄り添ってくれる親切な音楽と感じる人は、こちらの方が多いかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です