梶井基次郎 『城のある町にて』

 伊勢に家族旅行をすることになった。インテリの上司から「松坂城址に本居宣長の鈴屋が残っており、彼が著作をした机がある。こんな小さな机で学んでいたのか、ときっと感動するから」と訪れるようアドバイスをもらった。もう二十数年前のことだ。

 城址への坂を登りきると、突然目の前に伊勢湾の眺望がひろがった。伊勢湾は真夏の空のもと、陽の光を反射して白く輝いている。ああ、この景色、『城のある町にて』の情景みたいだと思った。しばらく、大小の船の描くゆっくりとした航跡を眺めていたが、ふと横を見ると石碑がある。何とそれは梶井基次郎文学碑で、中谷孝雄の筆でこの作品の一節が刻まれている。

 『城のある町にて』より

今、空は悲しいまでに晴れていた。そしてその下に町は甍を並べていた。白堊の小学校。土蔵作りの銀行、寺の屋根。そしてそこここ、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。

 ああ、ここがあの場所だったのか。迂闊だった。高校時代、漱石全集の次に買った個人全集が梶井基次郎の筑摩版三冊本全集だった。柄にもなく『冬の蠅』の暗さに引かれ、格好をつけてわざわざ「正字旧かな」表記の岩波文庫版なども持ち歩いたしたものだ。しかし私が好きになったのは『蠅』でも『檸檬』でもなく、『城のある町にて』だった。他の作品にはないそのほの明るさが、ほっとさせるのだ。何度も読んだはずであるが、その城が松坂城でI湾が伊勢湾だとはほとんど頭の中に入っていなかったのである。しかし、イメージだけはしっかりと記憶に定着していたことに、我ながら驚いた。石碑文に描かれた景色はすっかり変わってしまってはいたが‥‥‥。
 私のイメージを作っていたのはむしろ、

 空が秋らしく青空に澄む日には、海はその青よりやや温かい深青に映った。白い雲ぶんがある時は海も白く光って見えた。今日は先程の入道雲が水平線の上へ拡ってザボンの内皮の色がして、海も入江の真近までその色に映っていた。今日も入江はいつものように謎をかくして静まっていた。

この描写だったように思う。

  「ああかかる日のかかるひととき」
    …………
  「ハリケンハッチのオートバイ」

 城址でのこれらの一節がよく口をついて出たものだ。

 なぜ『城のある町にて』が好きだったのだろう。この作品は主人公峻が姉夫婦一家のもとで過ごした夏の数日間を描いたものだ。自らの心との対話でしかない梶井の作品であるが、この作品だけは、主人公峻の発話自体は記されてはいないものの、他の人々との交流が美しく描き出されているからである。

 特に印象的なのは、姪の勝子と亡くなった彼女の曾祖母である。曾祖母は姉の手助けのつもりで勝手に勝子を連れ出したのだが、川で溺れさせてしまう。勝子は流され、危ないところで父親に助けられる。命に別状はなかったのだが、それを苦にした曾祖母はそれ以後次第にぼけ一昨年に亡くなっている。

 ある日、峻は勝子ら子供たちが遊んでいるのを眺めている。たわいない遊びだが、腕白の男の子に、勝子が特にひどく扱われているのに気づく。

……見ているとやはり勝子だけが一番余計強くされているように思えた。……勝子は婉曲に意地悪されているのだな。

 それにしても勝子にはあの不公平がわからないのかな。いや、あれがわからない筈はない。寧ろ勝子にとっては、わかっていながら痩我慢を張っているのが本当らしい。

 そして夜、夕飯が済んで暫くしてから、勝子が泣きはじめた。手に刺した棘が痛み出したらしい。

「棘はどうせあの時立てたものに違いない」峻は昼間のことを思い出していた。ぴしゃっと地面へうつぶせになった時の勝子の顔はどんなだったろう、という考えがまたよみがえって来た。
  ………
「ひょっとしたらあの時の痩我慢を破裂させているのかも知れない」そんなことを思って聞いていると、その火がつくような泣声が、なにか悲しいもののように峻には思えた。

 最後の峻の心のつぶやきは、なくもがなとも思えるが、初期の習作性が残っているのだろう。かえってそれが他の梶井作品とは一線を画する魅力なのかも知れない。

 峻は女学校生である義兄の妹の信子に、ほのかな思いをいだく。しかし信子の描写はおぼろげである。それが却って主人公の思いのほのかさと相互に響きあってもいるようだ。くっきりと描き出される勝子像とは対照的である。

 中原中也など夭折した天才は多いが、もうあれで十分だったという気もする。しかし、梶井基次郎だけは、もう少し長生きすれば、もう一つ違う次元に到達することのできた人ではないか、と思う。

 現在梶井作品の文庫本の表題はすべて『檸檬』である。確か昔の角川文庫は、淀野隆三の編集だったかと思うが、この作品が表題にされていた。これもひとつの見識だったと思う。

 宣長さんの鈴屋も見学したが、うっかり「小さな机」を見忘れてしまった。奥の部屋にあったのだそうだ。

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