Lynda Lynn Haupt:  MOZART’S STARLING 3

 音楽泥棒第4のルートはあるか?

 Haupt女史の著作では、これまでにあげた3つの仮説だけである。シャーロッキアン端くれの私としては、これを放置するにしのびない。
 では、それ以外の仮説というのはどういうことになるのだろうか。もう一度、他の仮説が存在しうる可能性について見てみよう。次の4つのパターンがありうる。

  1.モーツァルトと椋鳥の間で伝達、交渉があった
    1-1.モーツァルトから直接的、あるいは間接的に椋鳥に伝わった
    1-2.椋鳥からモーツァルトに伝わった

  2.モーツァルトと椋鳥の間に伝達、交渉はなかった
    2-1.モーツァルトと椋鳥、各々別に同じものを知った
    2-2.偶然

 この4つのパターン、これ以外にはあり得ない。Haupt女史が紹介した3つの説はすべて1-1である。1-2は確実な日付がわかっているため問題外である。2-2は両者のモチーフが非常に似ているため、可能性は限りなくゼロに近いだろう。
 残るは2-1.モーツァルトと椋鳥、各々別に同じものを知った、というケースである。厳密には、そのソースが同じかどうかという問題があるが、深い追いしては闇に迷ってしまう。ここでは一応、それは無視することにする。
 果たしてこういうことがあり得るだろうか。Hauptさんの著書では全く検討されていないものだ。

状況証拠だが……

 Haupt女史は探究を開始するにあたって、まずモーツァルトの時代のウィーンの様子を記録したペッツル(Johann Pezzl)のウィーン・スケッチ集(Vienna Sketches)、また文化史家プラム(Christopher Plumb)の研究などを参照し、モーツァルトが椋鳥に出会った鳥売り人の実態を次のように描き出している。

Little is known about the local bird catchers, many of whom lived in near poverty at the fringe of society. They would catch raise, and sell birds to vendors with proper shop, or sometimes they would sell the birds themselves, along with simple homemade cages, from seasonal street stalls rented with their last pfennigs. There were often family ventures, with tatterdemalion youngsters sent into the fields and woodlands to check progress on nests and eggs. Nestlings were pilfered and raised until they were grown, sturdy, and ready for sale. Though the work was socially unrespected, it was not unskilled. …… And yet, as Plumb points out, most of what we know of these tradespeople comes from court records in which they are accused of drunkenness, robbery, or petty crimes. It seems they were never considered part of the society in which the birds they raised found homes. (pp.31 to 32)

It was surely one of these skilled ruffians who hand-raised the starling Mozart chose before it arrived at the shop; the bird was tame and friendly, and the practiced shopkeeper had no trouble catching it and depositing it in a small wooden box lined with natural grasses that Mozart carried home to his wife, Constanze, whistling all the while.(p.32)

 鳥売り人、すなわち鳥刺しと言われる人々は当時、郊外に住み、家族で鳥を捕獲しては育て上げ、ボロをまとった若者がウィーンの街路店を借りて売っていた。彼等が酔っ払いのやくざ者だと一般的に言われるのは、唯一記録として残された当時の上流階級の見方に過ぎない。実は彼等は、鳥の生態、生理に精通し、ビジネスも行っていた、プロなのだ。モーツァルトが出会った椋鳥を売っていたのも、このような彼等だったのだ。

 このHauptさんの鳥売りの描写、特にtatterdemalion youngsters、ボロをまとった鳥売りの若者、これから何か連想されないだろうか。そう、『魔笛』のパパゲーノである。鳥刺しパパゲーノの全身鳥毛の扮装は、この鳥売りの若者の姿を親しみを込めてパロディ化したものなのだろうと思う。

 ここで思い出されるのが、ガードルストーンの第17番協奏曲第3楽章での次の記述である。

(第3楽章のために)彼は主題と5つの変奏曲とそれに続く長めのコーダを書いている。主題にはドイツ民謡の調べがあり、パパゲーノの第1アリアを思わせる。

 協奏曲のモチーフとパパゲーノのアリアを並べてみよう。ガードルストーンの言う「第1アリア」はト長調であるのは好都合なのだが、旋律的には第2アリアの方が協奏曲のものに近いのではないか、おそらく勘違いだろうと思う。しかしガードルストーンの耳の直観はさすがである。協奏曲の主題とパパゲーノ第2アリアは、その音の進行とリズムがほぼ同じなのである。

 椋鳥もモーツァルトも音楽泥棒

 これからどのようなことが言えるだろうか。ここからは私の想像である。

 モーツァルトの協奏曲モチーフ、椋鳥の囀り、パパゲーノのアリア(特に第2)の民謡的な趣きを考えれば、これは、そのルーツは当然ながらこの時代の郊外の民の民謡であり、おそらくは露店を構えていた鳥刺したちが歌っていたものと推測できるのではないだろうか。鳥刺したちは、椋鳥を雛鳥から育てつつ、この民謡を口ずさんでいたのかもしれない。おそらくは椋鳥に対しても愛情深かったに違いない。椋鳥がそれを習い知ったとしても、さほど無理はないだろう。Hauptさんの飼育記を見ると、椋鳥が売り物の成鳥になるには、少なくとも3カ月以上、あるいはそれ以上かかりそうである。この期間が雛鳥からの習得期間である。

 1-1の説だと習得期間は1カ月強の間で、それも常時ではなくモーツァルトが訪れた時だけである。その間に完全に習熟すると考える方が無理である。Haupt女史も何年も飼っている椋鳥に、あらゆる機会を利用してこのモチーフ教え込もうとしたものの、完全に失敗しているではないか。ウィーンの聴衆が、初演の後で街を口ずさんでいたのを聞き覚える、という学者の説にも無理がないだろうか。

 一方モーツァルトの方は、自宅近くのマーケットで、椋鳥とは別に鳥刺しのこの民謡を偶然耳にしていたとしても、さほど無理のある仮定ではないだろう。おそらく通りかかったときのことだろうが、たとえ、3月の風にのって鳥売りの若者の歌が、開け放たれたモーツァルトの部屋の窓をとおして、彼の耳に入ったとしても、あり得ない話ではない。

 したがって、モーツァルトも椋鳥も、この鳥刺し、すなわち鳥屋からこのモチーフを知ったのだ。モーツァルトも椋鳥もともに音楽泥棒である。被害者はパパゲーノなのだ。

 第4のルート、私はこれが最も無理のない仮説だと思っている。

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