阿倍仲麻呂 百人一首第七番歌 三笠の山にいでし月かも
百人一首の第七番歌としてあまりに有名な阿倍仲麻呂の歌
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
の「三笠の山に出でし月」については、仲麻呂が日本にいた時に見た三笠の山の月を回想しているという過去説と、今ちょうど日本の三笠の山にも出た月だという現在説の両説がある。どちらの説をとるかは評者によってまちまちである。
今手元にある三種の『百人一首』の現代語訳をみてみよう。
最初は大岡信のものである。
大空ははてもなく東へかたむく
大岡信『百人一首』講談社文庫
ふりあおげば夜空に円く
鏡のような月がかかって――
ああふるさと春日なる三笠の山 かの山に
さしのぼっている月を
私は今この遥かな岸でみつめている
さすがに詩人である。余計なものは付け加えずにイメ―ジは大きく拡張されている。
次にピーター・J・マクミランの英訳をみてみよう。
I gaze up at the sky and wonder
ピーター・J・マクミラン『英語で読む百人一首』文春文庫
is that the same moon
that shone over Mount Mikasa
at Kasuga
all these years ago?
逐語訳を心がけると言っているマクミラン氏だが、さすがに過去を説明する最後の一行が不可欠と考えたのだろうか。 二つの説があることをふまえながらも大岡信は現在説、マクミランは過去説を採っている。
もう一本、安東次男の『百首通見』をみると、
はるかに眺めやる大空のあの月は春日の蓋山〈みかさやま〉にのぼった月だなあ(いまもそこにのぼっていることだろう、ということを余情にしている。)
安東次男『百人一首』所収『百首通見』新潮文庫
「余情」とはどういう意味だろうか。現在と過去では、余情となるのは過去の方だろう。奇妙な余情に思える。
話を単純化すればこの歌は、大空を見上げると、三笠の山にも出ている/出ていた月がのぼっている。ああ懐かしい……。ということだが、これだけでは私には何か間の抜けた、くだらない歌でしかないように感じてしまうのである。マクミラン訳の最後の行がなければ、歌にさえならないのを見ればわかるだろう。
この歌が名歌とされているのは、阿倍仲麻呂の伝承が暗黙の前提となっているからだろうか。終に帰朝できなかった仲麻呂への感情移入もあるのだろうか。それにしても少々変である。何が変なのだろうか。疑問点をひとつずつ検討してみたい。
疑問1 この歌はどのような形で日本に伝えられたのだろうか。
この歌は仲麻呂の歌ではなく、彼の伝承に仮託されたものだ、といった説もあるようだが、この歌の解釈自体にはさして大きな問題にはならないだろう。ここでは仲麻呂が唐より帰朝する際に詠んだもの、しかし帰朝を果せず後に仲麻呂が記したものが日本にもたらされた、と考えておこう。
仲麻呂が難破したのだから、この歌は誰かに託されたことは間違いないことだが、それはどのような形で書きあらわされていたのだろうか。
ちなみに仲麻呂の生没年は698~770年、これは万葉集の編纂者である大伴家持の718~785年とほぼ重なっているのである。すなわち仲麻呂は万葉歌人であり100年後に生まれる「かな」を知らないのだ。また若い年(17歳)で唐に渡った彼は、万葉初期の略体表記は知っていただろうが、「かな」どころか後期の非略体表記さえも知らなかったことは確実だ。この歌は略体表記で日本に伝えられたに違いない。
これが第1の仮説である。
疑問2 〈ふりさけ見れば〉とはどういう動作か。
略体表記されていたとするとこの歌は、
天原振離見在春日蓋山尓出月鴨
とでも書かれていただろう。〈ふりさけ見れば〉は万葉集には「振離見」あるいは「振放見」と略体表記された例が数首あるようだ。
現代の古語辞典では〈ふりさけ見る〉は「振り仰ぐようにして遠くをみる(新明解古語辞典)」という語釈が一般的になされており、この語釈に基づき仲麻呂の歌も解釈されてきたのだろう。
かつて万葉学者の阿蘇瑞枝や梅原猛といった人たちが略体歌の歌解釈においてそれに使われている漢字の持つ表象やイメージの重要性を強く主張していたが、私は仲麻呂歌の〈ふりさけ見れば〉の略体表記に「振離見」が使われていたとするならば、「離」には、これを使った他の万葉歌にはない、さらに強いイメージ、強い意志の力で引き離すようにふり仰き見るという気持ちが込められているような気がするのだ。ちなみに「離」でも「放」でもはなれる、はなすというイメージでは同じである。
古今集に採られたこの歌には長文の左注がつけられているが、そこには「‥‥明洲といふ所の海辺にてかの国の人むまのはなむけしけり。夜になりて月のいとおもしろくさし出でたりけるを見てよめる‥‥」とあり、いわば仲麻呂の送別会での歌である。「振離見」とは、この状況を踏まえて解釈する必要があると思う、
仲麻呂は唐でも厚遇され、唐朝でも重用されている。彼の中には、唐および友人たちの厚遇に対し、それを捨てて日本に帰ることに、後ろ髪をひかれる気持ちもあっただだろう。しかし、それを強い意志で振りきって日本に帰る。「離」にはそのような仲麻呂の気持ちが込められていると考えられるのだ。〈ふりさけ見れば〉とは、唐の友人たちへの思いを思い切って振り捨て日本に向って東の空を振り仰ぐという動作である。
これが第2の仮説である。
疑問3 〈三笠の山に出でし月〉とはどんな月か。
自然の中で隠喩的な象徴性を強く持つもののひとつが月であるが、この月の隠喩には歴史的にふたつの系列があるように思われる。
そのひとつは『夕顔と光源氏』の中で清水婦久子氏が古来の和歌の伝統として分析された“高貴”を隠喩する月であり、その行き着く先は道長の「欠けたるものなき月」である。
もうひとつの系列は古今~新古今の時代にかけて定着していく“ちぢにもの思わせる月”(大江千里)や“なげけとてもの思わす月”(西行)のように、もの思わせる意識を内向化させる月である。当然であるが、百人一首の月はこの系列の月が主流である。
仲麻呂の月はどんな月だろうか。
それは唐での経歴はやがて満月となって帰国後朝廷で輝くであろう月であり、例えば李白の「頭を挙げて山月を望み、頭を低れて故郷を思う」といった月ではないだろう。それは決して懐古やもの思わせる月ではなく、帰朝後の己を映し出した月なのである。今見ているのは「おもしろくさし出たりける」月である。そうでなければならない。
また、遣唐使として選ばれた者は航海の安全を三笠山に祈願したそうである。仲麻呂も三笠山に祈願し、そこで月を見たのだろう。そして今ふたたび遥か日本の三笠山に航海の安全を祈っているはずである。
〈三笠の山に出でし月〉には、帰朝後に自らを待ち受ける宮廷での満ちた月のような生活を映し出すとともに、三笠山にこれからの航海の無事を祈る、そのような月ではないだろうか。
これが第3の仮説である。
仮説1~3を総合すると
以上3つの仮説を総合すると、仲麻呂の歌は次のように解釈を拡大することができるだろう。
いよいよこれから日本に帰るのだ。夜明けとともに船出する。岸にはこの国で親交を深めた友人たちが見送ってくれる。これらの人々、この国との別れには後ろ髪を引かれる思いもあるが、心強く別れよう。東の方日本へと続く大空には月がのぼっている。あれは日本を発った時に見た三笠山の月と同じ月なのだ。月がやがて満ちるように、日本ではすばらしい宮廷での生活が待っていることだろう。私の唐での経験が大きく活きるだろう。三笠山の神よ、どうか日本にまで安全に航海させていただきたい。
〈三笠の山に出でし月〉は、単に余情、余韻をひびかせるものといったものではなく、仲麻呂の思いを重層的に詠み込むための主要動機であるように思われるのだ。