O・ヘンリー『警官と讃美歌』 原作と映画 1

 福島申二氏の朝日新聞連載「斜影の森から」での『O・ヘンリー 大都会の名もなき鼓動』(12月22日夕刊)は、元天声人語執筆者の筆になるだけあって、優れたエッセイであると感じた。
 少々長くなるが、その冒頭、まくらの部分を引用させていただく。

 いつしか吐く息が白くなり、きょうはもう冬至である。年の瀬がめぐってくると胸に浮かぶ川柳がある。

  〈世渡りの下手許し合う小さな膳〉

 つましい夕餉に差し向う夫婦だろう。「許し合う」の一語が効いている。「嘆き合う」でも「ぼやき合う」でもない。静かに通わせ合う心が、ともしびが恋しい季節には染みてくる。
 作者は明治生まれの小池鯉生という人。手もとの文献によれば、慶応義塾を出たあと、変転の多い人生を送ったらしい。この句は戦後に夫婦で鶏卵売りを営なんでいた頃の作という。
 この季節、「世渡り下手」の川柳に誘われて想像が飛んでいくのは、米作家O・ヘンリーがニューヨークの庶民の哀歓を紡いだ珠玉の名品たちだ。
 木枯らしが吹いて雪の舞う頃の物語はとりわけ名高い。鯉生の句にも響きあう「賢者の贈りもの」、さらに「最後の一葉」「警官と讃美歌」。大都会の繁栄からこぼれ落ちる人たちへのまなざしは、あたたかく、ほろ苦い。
 それら3作をはじめ、この作家の五つの小説を連ねたオムニバス映画「人生模様」(1952年 米)を久しぶりに観た。

 O・ヘンリーといえば、我々昭和の人間にとっては、中~高校の国語や英語の教材として使われていたもので、当時「二十年後」や「最後の一葉」などを読まされて、「文学作品とは、作りものであってもいいが、嘘ではいけない‥‥」などと生意気な感想を抱いたことがあったことを思い出す。私の読書経歴の中で大きな位置を占めることのなかったO・ヘンリーであったが、福島氏のエッセイにあるスタインベックが語り手を務める映画『人生模様』(Full House)を観てみようと思い立ったのである。

 文学作品の映画化というものは、ほぼ失敗するものだ。名作であるほど、その傾向は強い。地の文に込められた「意味」を映像化することが極めて難しいためだろう。しかしながらこの映画、特に「警官と讃美歌」などは原作をうわまわる出来の作品になっているのではないか。福島氏が原作ではなく、映画を取り上げたのもむべなるかな、と思わされた。
 ここでは五つの作品のうち最初の「警官と讃美歌」について、映画で原作がどう処理されているかを見ていきたい。

ソーピーとトゥルースデール

 主人公ソーピーは、冬が近づくごとに、寒い3カ月を居心地のいい刑務所で過ごそうと企らむ、ニューヨークの浮浪者である。映画ではソーピーの心の声を実際の話声に変換する役割のトゥールズデールという男が登場する。原作にはない人物である。彼は年配のソーピーを心配して刑務所ではなく、南のフロリダ行きや慈善団体に頼ることを勧める。

 だが、ソーピーは拒絶する。彼の“思想”はこうだ。原作から引こう。

 ソーピーの考えでは、慈善より法律の方が親切だあった。出かけて行けば、簡素な生活にふさわしい宿舎と食べ物を提供してくれる。市や慈善団体の施設は無数にあった。だがソーピーのような誇り高い人間には慈善の贈りものは重荷だった。慈善の贈りものを受け取るには、金銭の代価ではないにしても、精神的屈辱の代価を支払わねばならない。

岩波文庫 「オー・ヘンリー傑作集」より 大津栄一郎訳
The Bowery Missison

 映画ではThe Bowery Missionという、現在でもニューヨークでホームレス救済などの慈善事業を行っている団体の募金楽隊がクローズアップされる。このシーンで歌われる“Bringing in the Sheaves”というゴスペルの歌声の一節も、その音量が一層上がる。このゴスペルを読み解けというのだろう。その歌詞は、

Sowing in the morning,
Sowing seeds of kindness,
Sowing in the noontaide and the dewy eve;
Waiting for the harvest,
and the time of reeping,
    [Refrain]
Bringing in the sheaves
bringing in the shieves ………

 これはすなわち、主のための勤労賛歌なのである。しかも、kindnessの種を蒔くといったおせっかいは、誇り高きソーピーには耐え難いものだろう。少し後の歌詞に、

Fearing neither cloud
nor winter’s chilling breeze

とくると、もう余計なお世話だと叫びたくなることだろう。

 このゴスペルの神は、厳しい、命ずる神なのである。

 しかしながら、レストランでの無銭飲食、傘泥棒、ショーウィンドウ壊しなど、“運悪く”すべて見逃され、3カ月の刑務所行きを目指す軽い犯罪は、ことごとく失敗に終わる。
 最後の手段としてソーピーが選ぶのが、警官の目の前で、ウィンドウ・ショッピングをしている「優雅な容姿」の女性を誘惑することだ。女が助けを求めれば、買春行為として直ちに捕らえられるだろう‥‥。しかし彼女はここで警官を一瞥はするものの、ソーピーの知人の役を演じるのである。
 原作では、彼女は実際の娼婦であり、ソーピーは腕をふりほどいて逃げだすのだ。一方映画での彼女は警官の前でソーピーを庇うことになるような演技をする。その瞬間、ソーピーは「私が悪かった‥‥」と謝り始めるのである。そして彼女は去り行くソーピーを見つめながら、「私をレディと呼んでくれた‥‥」と涙ぐみそうになるのである。
 このマリリン・モンローの扮する女性は、確かに上流社会に属する人物ではないし、レディとも呼ばれることのない女性である。しかし、彼女の反応はソーピーの心に光を投げかける、彼女は彼の言葉の中に“美しいもの、敬うべきもの”が見えたのかも知れない。

 このシーンはこの映画の中で唯一ソーピーの視線から離れたカットである。その意味では余計なものかも知れないが、これが最後の教会の場面におけるソーピーの改心の伏線となっているのだ。

 余計なことだが、この女性の語る、He called me a lady—–、を「私をお嬢さんと呼んでくれた‥‥」としている日本語字幕のものがあるが、それではぶち壊しである。

その2 につづく

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