O・ヘンリー『警官と讃美歌』 原作と映画 2

最後の教会の映画でのシーンは、原作から大きく作り変えられている。原作を引こう。

 だが異様なほど静まり返った角に来て、ソーピーは立ちどまった。そこには、古風な、不規則な恰好の、破風のある古い教会が立っていた。紫色の窓から柔らかな灯が洩れている。オルガン奏者が次の日曜日の讃美歌の練習にキーを叩いていたのにちがいない。―(略)―
‥‥そしてオルガン奏者のひく讃美歌がソーピーを鉄柵に釘づけにしたのだった。それは、母とかばらの花とか大望とか友人とか汚れない思いとか純白のカラーなどが彼の生活の中に存在していた時代に、よく聞いた讃美歌だあった。
 彼は感じやすくなっていたのと古い教会の持っている感化力とが結びついて、突然、ソーピーの魂に不思議な変化が生じた。……

岩波文庫 「オー・ヘンリー傑作集」より 大津栄一郎訳

  原作での讃美歌は伴奏のオルガンのみ、またはソーピーの頭の中での回想の歌声であり、彼を改心に導くのは、思い出と古い教会のおもむきなのである。
 一方映画では、実際に讃美歌の合唱が響いている。ソーピーとトゥルースデールは教会に入るが、おそらく晩禱か何かが行われているのだろう。他の参列者の帽子も見えている。決してソーピーの頭が回想しているものではないだろう。

 その讃美歌合唱が、Softly and tenderly Jesus is calling である。

Softly and tenderly Jesus is calling—–
     Calling for you and me;
Patiently Jesus is waiting and watching—–
    Watching for you and for me!

Come home! Come home!
 Ye who are weary, come home!
Earnestly, tenderly, Jesus is calling,
Calling, O sinner, come home!

 ソーピーは目を閉じ讃美歌に聴き入っているが、Calling for youの一節で突然慟哭をはじめるのだ。Come home! Come home! Ye who are weary, come home!  汝疲れ果てし者よ、我に戻れ。ソーピーは泣き崩れるように教会を出る、明日より働くことを決意して。

 冒頭の慈善団体楽隊の“厳しい、命ずる神”に対し、これは“暖かく、包容する神”である。放蕩息子を受け入れる父であり母である。
 主人公ソーピーの改悛という、原作と映画の主題は同じであっても、その内実は全く異なったものとなっているのだ。私は神の二面性を主題のもうひとつの柱に据えた映画がより優れた「文学」であるように思える。

 改心をしたソーピーは、今回こそ本当に“運悪く”、文無し浮浪の罪で警官に捕えられて、皮肉なことに3カ月の刑務所行きを宣告される、これが結末である。

 たった20分弱の「警官と讃美歌」の映画化であるが、いろいろな仕掛けや考えさせられるところが、そこにあるのが見えてくる。
 例えば、無銭飲食のためにレストランに入るまでのシーンに流れる音楽、これはJ・シュトラウス2世の「皇帝円舞曲」である。本来大オーケストラで奏されるべき音楽であるが、ここではシュランメル・スタイルで演奏されているのだ。皇帝気分ではあるが所詮は無銭、フルオーケストラまでは‥‥、といったところか。
 またマリリン・モンロー扮する女性の言葉、“He called me a lady—–”。これを見ていると、真心からLadyと呼ばれたいと願った彼女の後半生を予言しているようにも思われる、いや、そう思いたくなるほど、ここでのモンローは美しく撮られている。

 冒頭で引いた福島氏のエッセイは、こう締めくくられている。

 「1900年代初め、ニューヨークには400の名家があったが、O・ヘンリーは多くの無名人を描いた。」
 これはオムニバス映画に「語り手」として登場してくる文豪スタインベックが市井の機微に向けたまなざしに敬意を込めるように語る言葉だ。
 年の瀬である。早い日暮れに灯がともるどの窓にも、人の幸があればいい。

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